2018年、19年はフェミニズム本の当たり年だった。新刊書の出版が相次ぐ一方、過去の著作にも新たな光が当たりはじめた。昨年11月に文庫の形で復刊した田嶋陽子『愛という名の支配』(初版は1992年)もそんな一冊。「田嶋陽子さんって、テレビに出まくってたあの先生よね」というイメージが強いかもしれないが、どっこい、彼女の啓蒙力は高かった。その証拠に、昨年創刊されたフェミニズム系の新雑誌「エトセトラ」第2号(山内マリコ&柚木麻子責任編集)の特集は「We LOVE 田嶋陽子!」である。

 本書は<私のフェミニズムの原点は母である>という打ち明け話からはじまる。<私をひとりだちできるように育てたい、という母の決意は正しかった>が、そのしつけ方は<私にとっては抑圧そのものだった>。しかし、その母自身も抑圧の中にいた……。

 とはいえ、この本でもっとも印象的なのは<黒人は綿摘みのため、女は子産みのためドレイになった>という「女はガレー船のドレイ」論だろう。ガレー船とは映画の「ベン・ハー」なんかに出てきた人力で動かす船のこと。<ガレー船の甲板の上には王侯貴族や市民がいて、船底にはドレイがいます>。船にはまた<ドレイ頭がいて、リズムキーパーと呼ばれています。彼は、船がまっすぐ前進するように音頭をとる人です>。甲板で華々しく活躍する王侯貴族(男たち)のために、リズムキーパーの音頭に乗って、船底で船を漕ぎ続けるドレイ(女たち)。この秀逸な比喩はさらに発展し、結婚は<植民地支配の鉄則のひとつ、「分割して統治せよ」で、主人一人にドレイ一人、男一人に女一人を割りあてた>制度、ドレイは主婦ドレイと快楽ドレイに分断された、そして女の役割から逃げた自分は逃亡ドレイだという風に続くのだ。

 ドレイという語に反発する向きには<王侯貴族とドレイとのあいだにだって愛情はあります>。しかし<王侯貴族とドレイの関係に変わりはありません>。苛烈だけどユーモラスな田嶋流のフェミニズムは今もまったく古びていない。

週刊朝日  2020年1月24日号