岩倉具視幽棲旧宅(c)朝日新聞社
岩倉具視幽棲旧宅(c)朝日新聞社

 慶応3年暮れ、王政復古が成ると上京する。東征総督府の軍監として江戸に乗り込み、江戸遷都を岩倉具視に訴えるとともに、彰義隊の討伐を主張し、佐賀藩が誇るアームストロング砲で粉砕した。

 明治政府では文部大輔として文部省の創設に尽力する。そして江藤の真骨頂は初代司法卿としての活躍で、民法の制定や司法権の政治からの独立を図ったことも知られる。 江藤は志士としても官僚としても、その行動力はずば抜けていた。

 一方、公家のなかで不屈の行動力を示したのが岩倉具視である。

 岩倉は下級公家ながら、孝明天皇の近習であり、朝廷と幕府の駆け引きに関与した。安政五年(1858)、日米通商条約締結に反対して、公家衆88人の列参という抗議行動を組織したのを手始めに、朝廷有利の公武合体策として皇女和宮降嫁を演出した。文久二年、島津久光が率兵上京すると、薩摩藩の幕政改革を支持した。これを機に岩倉は同藩と接近する。

 その後、和宮降嫁策を幕府への屈服だと攘夷派に非難されて逼塞するが、その間も「叢裡鳴虫」など挙国一致を訴える意見書を各方面に送った。

 岩倉の運動はすべて朝権回復(=王政復古)を成し遂げるためだった。

 そして慶応三年(1867)十月には討幕の密勅、十二月には王政復古政変を画策して永年の宿願を果たすのである。 明治になってからは同六年(1873)の征韓論政変への対応である。西郷隆盛らの征韓論は国を危うくするとみて、大久保利通と手を握り、宮廷工作までしてその意図を打ち砕いた。岩倉は行動する非凡な宮廷政治家だったのである。

 これまで見てきた維新への貢献者の面々で足りないものがある。それは「構想力」である。幕府に代わる新しい日本の姿形はどうあるべきか、そのグランドデザインを提示できた者は少ない。その一人こそ横井小楠である。 本藩士にして著名な儒者であり、堂々たる開国論を主張していたが、熊本藩は派閥抗争が激しくて活躍の場がなかった。

 その横井の経綸に注目し、招聘したのが福井藩主の松平慶永(のち春嶽)である。横井は慶永の政治顧問というべき地位に就いた。そして「国是三論(富国論・強兵論・士道論)」により、鎖国の弊害を説き、交易による富国の実現と海軍強化、人材の育成を提起した。また参勤交代の廃止による海防強化を主張したのも横井である。

 その間、失脚も経験したが、王政復古が成ると、岩倉具視が横井を新政府に招聘した。しかし、その博識を発揮する前に暗殺者の凶刃に斃たおれてしまった。明治二年(1869)一月のことである。横井の開国論が忌むべき欧化思想として攘夷派の標的にされたのである。 欧化策といえば、大村益次郎の襲撃もそうである。大村は徴兵制度の創出、フランス式軍制の確立、政府直属軍の創出などを次々に実行に移そうとした。

 それは武士身分の否定でもあったことから攘夷派の恨みを一身に買い、京都の三条木屋町で襲撃された。横井の遭難からわずか8カ月後のことだった。即死ではなかったが、重傷を負い、敗血症を併発して帰らぬ人となった。 なお、大村と同じ長州人の広沢真臣も非業の死を遂げた。殺害理由は政治的な背景があるのか、あるいは家人の痴情のもつれの巻き添えともいわれ不明である。

◎監修・文/桐野作人
きりの さくじん/1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、武蔵野大学政治経済研究所客員研究員。著書に『本能寺の変の首謀者はだれか 信長と光秀、そして斎藤利三』、『龍馬暗殺』(吉川弘文館)、『愛犬の日本史』(平凡社新書)、『明智光秀と斎藤利三』(宝島社新書)、『薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実』(NHK出版新書)、ほか多数。