週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』から。この10人は、山脇之人著『維新元勲十傑論』で選ばれた十傑をもとに、桐野作人氏が独自に、長州藩の前原一誠を外し、土佐藩の後藤象二郎を加えたものである(写真/国立国会図書館所蔵)
週刊朝日ムック『歴史道 Vol. 15』から。この10人は、山脇之人著『維新元勲十傑論』で選ばれた十傑をもとに、桐野作人氏が独自に、長州藩の前原一誠を外し、土佐藩の後藤象二郎を加えたものである(写真/国立国会図書館所蔵)

 しかし、朝廷にはそれを受け容れる心の準備も能力もなかった。そのため、たとえ慶喜が政権返上を上奏しても、それを受理せず、慶喜に差し戻そうとする声が強かった。いわゆる大政再委任である。もう一度慶喜に政権を担当させ、朝廷がその正当性を担保しようという趣旨であった。 それを知っていた会津藩は、慶喜の参内に軍勢を動員して警固の名目で禁裏御所に入り、朝廷に無言の圧力をかけて、大政再委任を獲得し、大政奉還を骨抜きにしようとした。しかし、慶喜は会津藩を叱責して同行を拒絶してしまう。

 この時、慶喜が勅許を得るために頼りにしたのが小松帯刀だった。小松は慶喜の政権返上が本気だと確認すると、五カ条の条件を提示した。それは土佐藩の大政奉還建白にはなかった将軍辞職、長州復権、第一次長州征討で太宰府へ配流された五卿の帰京、雄藩諸侯の召集などだった。慶喜がそれを承諾すると、小松は禁裏御所に乗り込んで、摂政の二条斉敬らを説得、勅許の案文まで作成して勅許を実現したのである。

 小松にはこの勅許をあえて認めさせず、面目を潰された土佐藩と手を握って武力行使への選択肢がないわけではなかったが、当面の武力衝突を回避しながら、政権返上と慶喜の将軍辞職を実現する道を選んだ。王政復古への道が開かれたのは、じつに小松の決断だったのである。

 明治維新は薩長土肥の力で実現したとよくいわれる。しかし、肥前こと佐賀藩の影は薄い。それもそのはず、佐賀藩は王政復古政変までじっと中立を守って動かなかった。それでも他の三藩と並び称されるようになったのは、戊辰戦争で勝利に貢献したことによる。

 しかし、維新前、藩としては動かなくても、藩士個人で奔走した人物がいた。江藤新平である。 尊王論に傾倒していた江藤は文久二年(1862)に脱藩上京し、長州の桂小五郎(後の木戸孝允)を頼った。そして攘夷派公家の姉小路公知を通じて朝権回復を訴える密書を上奏しようとしたが、老公鍋島閑叟に帰藩を命じられて蟄居となった。蟄居中も幕府の長州再征に反対する意見書を藩主鍋島直大に提出した。

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