半世紀前の三ノ輪橋停留所。舞い落ちる雪をヘッドライトが照らす(撮影/諸河久:1963年2月3日)
半世紀前の三ノ輪橋停留所。舞い落ちる雪をヘッドライトが照らす(撮影/諸河久:1963年2月3日)

 2020年の五輪に向けて、東京は変化を続けている。前回の東京五輪が開かれた1960年代、都民の足であった「都電」を撮り続けた鉄道写真家の諸河久さんに、貴重な写真とともに当時を振り返ってもらう連載「路面電車がみつめた50年前のTOKYO」。今回は、今も健在な荒川線・三ノ輪橋を発着する半世紀前の都電だ。

【55年が過ぎた現在の同じ場所はどれだけ変わった!? 写真はこちら】

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 自動車に混じって走る都電は、渋滞が多かった交通の要衝であるほど発着の遅れが生じるのは日常茶飯事で、定時運行は“苦手”だった。道路上の軌道敷を走るということも加えると、運行時に風雨の影響を受けやすく、無論、雪にも弱かった。

 写真は56年前の都電・三ノ輪橋停留所風景。ときどき雪が降り、底冷えがする一日だった。後述するが、ほとんどが専用軌道で敷設されたこの路線は交通渋滞知らずで、気象条件の悪化にも強かった。

現在の同じ場所。50年以上も付近の住民に愛されたのは、荒川線の先見性があったからこそ(撮影/諸河久:2019年1月21日)
現在の同じ場所。50年以上も付近の住民に愛されたのは、荒川線の先見性があったからこそ(撮影/諸河久:2019年1月21日)

 地方私鉄の始発駅のような停留所から、27系統赤羽行きがヘッドライトを点して発車するシーンを狙った。右側には1942年に「陸上交通事業調整法」により「王子電気軌道(以下・王電)」を東京市に統合した際に引き継いだ160型が待機している。この160型は1927年に王電が日本車輌に発注した車両で、同系の川崎造船所製の170型とともに市電に編入された。双方とも製造時から古巣の荒川車庫(王電時代は船方車庫と呼ばれていた)を離れることなく、27、32の両系統で1968年まで稼動した。「王電タイプ」ともいえるこれらの編入車は、その外観や車内が都電車両と大きく異なり、専用軌道を疾駆する姿は路面電車ファンの良き被写体となった。

■王電の遺産「王電ビル」

 1950年代までの三ノ輪橋停留所は、二線の間に一面の乗降所を加えた二線・三面式乗降所だった。1960年代になると写真のような二線・二面式乗降所になり、双方向から折り返せるシーサスクロッシングと呼ばれる分岐器が設置されていた。1978年からワンマン運転が実施されると、左右両側の扉からの乗降扱いができないため、現在の一線・一面式乗降所に改築されている。

 画面背景に写っている東莫ストアの左隣が「王電ビルヂング」だ。王電が建設した三階建て鉄筋コンクリートビルで、1927年に竣工している。往時は階上に百貨店と写真館が併設されていた。一階通路の両側がアーケードの三ノ輪橋商店街で、王電の三ノ輪停留所へと続いていた。

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諸河久

諸河久

諸河 久(もろかわ・ひさし)/1947年生まれ。東京都出身。カメラマン。日本大学経済学部、東京写真専門学院(現・東京ビジュアルアーツ)卒業。鉄道雑誌のスタッフを経てフリーカメラマンに。「諸河 久フォト・オフィス」を主宰。公益社団法人「日本写真家協会」会員、「桜門鉄遊会」代表幹事。著書に「オリエント・エクスプレス」(保育社)、「都電の消えた街」(大正出版)「モノクロームの東京都電」(イカロス出版)など。「AERA dot.」での連載のなかから筆者が厳選して1冊にまとめた書籍路面電車がみつめた50年 写真で振り返る東京風情(天夢人)が絶賛発売中。

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「荒川線」先見性の高さとは?