『金閣寺』新潮文庫
『金閣寺』新潮文庫

 当初、心の中で思い描いていたほどには、金閣を美しく感じなかった溝口だが、戦況が激しくなり、金閣も自分も共に空襲で焼け死ぬかもしれないという同じ運命に思いを馳せると、金閣はもはや実在以上の永遠に儚(はかな)い美の象徴として感じられるようになった。

 私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。同じ禍(わざわ)い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった。私の脆(もろ)い醜い肉体と同じく、金閣は硬いながら、燃えやすい炭素の肉体を持っていた。

 ところが敗戦後は、金閣の周りに進駐軍や娼婦などが訪れるようになり、またある種の幻影は崩れていく。大学に進学した溝口は、内反足(ないはんそく)の障害を持つ柏木と友人になる。この柏木は障害をある種の道具にして、女たちを籠絡(ろうらく)していた。溝口も柏木から下宿屋の娘を紹介してもらうが、性交の寸前になって目の前に金閣の幻影が立ち現れ、失敗に終わる。

 そのとき金閣が現われたのである。

 威厳にみちた、憂鬱な繊細な建築。剥(は)げた金箔(きんぱく)をそこかしこに残した豪奢(ごうしゃ)の亡骸(なきがら)のような建築。近いと思えば遠く、親しくもあり隔たってもいる不可解な距離に、いつも澄明に浮んでいるあの金閣が現われたのである。

(中略)

 下宿の娘は遠く小さく、塵(ちり)のように飛び去った。娘が金閣から拒まれた以上、私の人生も拒まれていた。隈(くま)なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、私に断念を要求する権利があったであろう。

 さらにもう一度、溝口は同じことを繰り返す。女性の乳房を前にして、またしても金閣が出現し、溝口は不能に終わる。やがて溝口は金閣に対し憎しみを抱くようになる。

 ほとんど呪詛(じゅそ)に近い調子で、私は金閣にむかって、生れてはじめて次のように荒々しく呼びかけた。

「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」

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『金閣寺』に現れる巨大すぎる三島の屈折