数多くの肖像画に描かれた徳川家康。堺市博物館所蔵の「徳川家康肖像」は、なかでもよく知られたものだろう
数多くの肖像画に描かれた徳川家康。堺市博物館所蔵の「徳川家康肖像」は、なかでもよく知られたものだろう

どうする家康」第2回で、松本潤演じる家康が何度も唱えた「厭離穢土 欣求浄土」は、「おん(えん)りえど ごんぐじょうど」と読むが、訓読すれば「穢土を厭離し、浄土を欣求せよ」となる。ここで記された「穢土」とは「穢(けが)れた世界」の意味で、地獄(死後に落とされる地下の牢獄)や修羅(争いを好む悪鬼の棲む世)などの苦悩の世界のことを指す。家康が生きた戦国時代はまさに穢土。人々は戦や略奪の恐怖におびえ、戦場はもちろん、道端にも髑髏(しゃれこうべ)が打ち捨てられた時代であった。
 
「厭離穢土 欣求浄土」の旗をつくった登誉上人は、近隣に使いを出して信徒らを呼び集め、自ら旗を持って山門を防御したという。そして、この時から家康は「厭離穢土 欣求浄土」と記した旗を戦陣の旗印にしたと伝えられている。

「厭離穢土 欣求浄土」とは、いささか戦国武将らしからぬ言葉(旗印)とも思えるが、「欣(ねが)い求めよ」という浄土は、来世の極楽浄土にとどまらず、安らかな心の状態のこともいう。家康には、戦乱を終わらせて平和な世の中をつくるという願いもあったのではないだろうか。

 阿弥陀仏を信仰する仏教宗派には、浄土宗のほかに浄土真宗や時宗がある。そのなかで、在地の農民や武士を集めて大規模な一揆を興したのが、当時「一向宗」と呼ばれていた浄土真宗だった。そして一向一揆は戦国大名をしのぐ兵力を持ち、各地で蜂起を繰り返した。

 家康が治めた三河(愛知県東部)でも、永禄6年(1563)から翌年にかけて三河一向一揆と呼ばれる争乱が起こった。家康の有力家臣たちも一揆側に加わり、家康は大ピンチに陥ったが、争乱勃発から半年後に和睦に持ち込むことができた。

 織田信長は、一向一揆に対して皆殺しも辞さない弾圧を加えたが、家康は信長とは違ったようだ。江戸幕府の史書『徳川実紀』によれば、家康は帰順した一向門徒を赦免して、次のように言ったという。

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「お前たちを許して怨まない」