「彼女の何事に対してもまっすぐでストイックな生き方が世の多くの女性から共感を得ている理由でしょう。トップモデルという華やかな世界を経験しながらも、普通の母としての感覚も持ち合わせているところが支持されている」(同)

 17歳で単身、ニューヨークに渡り、日本人離れした抜群のプロポーションと、エキゾチックな顔立ちを武器にトップモデルに仲間入り。多くのランウェイショーに出演し、引っ張りだことなった冨永。一見、華やかな経歴に見えるが、そこに至るまでには壮絶な過去があったとこはよく知られている。

「母親は結婚離婚を何度か重ね、3姉妹の父親が全員違うという家庭環境で育ったと2014年に出した自叙伝で告白しています。小学生時代から並外れたスタイルだったため、『宇宙人』というあだ名をつけられていじめ被害にも遭っていたそうです。モデルとして活躍するようになってからも、アジア人という理由で、正当な評価を得られなかったり、差別的な態度をとられたり、悔しい思いをしたことも多かったとインタビューで語っていたこともあります。本人はそんな悔しさをモチベーションにして楽しんでいたと語っており、本当に芯の強い女性なんだなと思ました」(同)

■息子のために3年間休業

 2004年にパリ在住の日本人パティシエと結婚。23歳のときに出産したのが章胤だった。出産後、たった半年でランウェイに復帰したことも話題となったが、2009年には離婚。以降、シングルマザーとして仕事と子育てを両立していた。ときには大黒柱の父親役も担わなくてはならず、生活費や教育費を稼ぐことに不安を抱えていたと前述の自叙伝に記している。さらに同書では、章胤から「ぼく、生まれてこなきゃ、よかった」とショッキングな言葉を投げつけられたことも明かしている。

 多忙なせいで親子関係がぎくしゃくしたことにショックを受けた冨永は、2014年から約3年、モデルや芸能活動を休業すると決断。親子の時間を取り戻すため、小学校のPTA役員を務めたり、旅行に行くなど子育てに専念していたという。

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「現場で悪い話を聞いたことがない」