検察の“ストーリー”を崩した「石井手帳」の一部
検察の“ストーリー”を崩した「石井手帳」の一部

 “検察ストーリー”は完全に打ち砕かれ、一気に村木さんの無罪に傾いた瞬間だった。

 その裁判を機に、筆者も石井さんとは何度も親しく話をさせていただくことがあった。

「石井手帳」を見せてもらうと、一日の予定や会った人、ゴルフのスコア、飲んだワインの銘柄、得意だったジャズの曲名など微に入り細に入り、実に細かなことが記されていた。

 筆者と会った時も、

「今西記者」

 とすぐさま手帳に書き込んでいた。

 検察の捜査をも突き崩した「石井手帳」。その始まりは、今から40年以上前にさかのぼる。

 1977年、過激派グループの日本赤軍が、バングラデシュのダッカ空港でハイジャック事件を起こした。当時、運輸政務次官だった石井さんは、福田赳夫首相(当時)から、156人の人質解放に向けた犯人グループとの交渉役を任され、政府の特使として現地に派遣された。

「『4日4晩』、乗客救出のため、寝ずにやりました。その時、ささいなことでも手帳に書き残しておいた。それが、日本に帰って事件や政府対応の検証などにとても役立ったのです。国会議員という公人として、公務、政務、プライベート関係なく、きちんと記録することが大事だと、ずっと手帳をつけることにした。1995年の阪神大震災でも、しっかりつけていた内容が今も政治に生かされている」

 と石井さんは話してくれた。

 だが、「石井手帳」にどんなに自信があっても、村木さんの事件は大阪地検特捜部が威信をかけて立件した事件だ。

 石井さんがいくら、閣僚経験者で当時は政権与党だった民主党の幹部であっても、『検察ストーリー』をひっくり返すにはかなりの覚悟があったはずだ。

 その点について聞くと、石井さんが秘書を務めたことがあり、「政治の師」という田中角栄元首相と、かつての盟友だった小沢一郎氏の名前が出てきた。

「角さんは、まさに私にとってオヤジ。ロッキード事件という疑獄事件で汚名を着せられ、逮捕された。あれは絶対に冤罪だ。私も一歩間違えば、(村木さんの裁判で)大阪地検特捜部に無実の罪を着せられていたかもしれない。ちょうど、小沢氏は、陸山会事件で検察に徹底的にやられて政治家として追い込まれていた。そこで私の首をとれば、検察は(与党)民主党の東西の大物が消せるわけだ。そんなことに屈してられない。オヤジの悔しい思いを晴らすためにも、しっかり真実を語るべきだと証言した」

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