さらに安政五年(1858)六月、長崎で流行り始めたコレラは瞬く間に全国に広がり、この流行の最中安政七年に大老井伊直弼が殺され、続いて老中の安藤信正が襲われて、政局が江戸から京都へと移ったといわれているが、安政六年に本丸が、文久三年には本丸と西の丸が全焼して、江戸城は政治が行える状態ではなかったことも一因であろう。

 政治的に不安定な状態が続く上、慶応元年(1865)と同三年は凶作となった。度重なる災害に人々の不安は募り、慶応三年(1867)に、ええじゃないかという形で爆発するのである。

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.10』から