子どものころのアグネスさん一家。写真左前がアグネスさん(アグネスさん提供)
子どものころのアグネスさん一家。写真左前がアグネスさん(アグネスさん提供)

「え?私は欠陥商品なの?」ってすごくコンプレックスを持っていました。そんなこともあり、子どもの頃は自己肯定感が低かったですね。「自分一人世の中から消えても誰も気づかないんじゃないかな」と思っていたりしていました。

 それが変わったのが、中学生の時に始めたボランティア活動でした。いろいろな施設に行って、子どもたちと話をしたり、一緒に遊んだり。この活動ですごく性格が変わりました。みんなの前で話をすることすらできなかったのに、フォークソングクラブで覚えたギターを弾いて、子どもたちに歌を歌ってあげたりしていたんですから。募金を集めようとチャリティーコンサートで歌っているうちに、だんだん話題になり、スカウトマンがうちに何人も来るようになったんです。自分でもびっくりでした。

 でも父は大反対。最初にスカウトマンが来た時、父は包丁持って追い返していました(笑)。その頃、すでに長姉はデビューをしていたのですが、姉はデビュー後あまり勉強をしなくなってしまったんですね。それが許せなかったんだと思います。ですから、もう一人芸能界?嘘でしょ?という気持ちだったのかと。だから私は絶対きちんと勉強すること、テストの点数は平均で80点以上取ることを条件に許してもらったんです。

 香港でデビューしたのが15歳。想像していた以上に売れてしまい、「アグネス・チャン・ショー」というテレビの冠番組も持つようになるんです。まだ中学生なのに。その番組に作曲家の故・平尾昌晃先生がゲスト出演してくださったのを機に日本でのデビューも決まったのです。

 日本でのデビュー曲「ひなげしの花」も思いがけず大ヒットしました。ただ、それからはとにかく忙しくて。日本で半年仕事をしたら2ヶ月香港に帰る、という生活をしていたんですが、日本でも相当忙しいのに、香港に帰ると母がその期間にめちゃくちゃスケジュールを詰め込むんです。レコーディング、ドラマ、映画。夜中の2時からでも取材を入れる。ほとんど寝ていなかったです。父はそんな私を見て心を痛めていたようでした。

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