この動きを押しとどめようとしたのが後鳥羽である。諸勢力の上に君臨し、日本全土を支配下に置くことを目指した後鳥羽は、義時の首を自分の意に沿う御家人にすげかえ、幕府本体の軍事力を直接掌握しようとして「北条義時追討」の院宣・官宣旨を発した。承久の乱である。「朝敵」とされた義時はもちろん恐怖におののいた。しかし、政子以下、時房・泰時・広元・三浦義村ら幕府首脳部の結束は固く、いわば「チーム鎌倉」としてこの最大の難局に対応した。

 結果は義時側の完勝、後鳥羽側の完敗であった。乱後、義時は三上皇を配流するとともに、新たな天皇・治天の君を決め、京方の土地を没収して鎌倉方の武士に給与し、朝幕の力関係を逆転させた。承久の乱の勝利によって、頼朝から学び、頼家・実朝期の権力闘争を勝ち抜いた自らの力を歴史に刻んだのである。義時は「真の武士の世」を作った、まさに真の立役者であった。

週刊朝日ムック『歴史道 Vol.19』から