承久の乱合戦供養塔は前渡不動山にある
承久の乱合戦供養塔は前渡不動山にある

 若年時から源頼朝のそばで経験を積んだ北条義時。頼朝の死後は権力闘争に勝ち、ついには後鳥羽上皇と雌雄を決した「承久の乱」に勝利。鎌倉幕府の政権を揺るぎないものにした。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.19』では、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」時代考証者・坂井孝一氏が“主人公・義時”を徹底解説。前回の記事に続き、不明な点も多い実像をズバリ斬る!

【写真】北条義時とゆかりが深い寺

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 正治元年(1199)一月に頼朝が急死し、嫡男頼家が二代鎌倉殿になると、義時は宿老に交じって幕政の一端を担った。しかし、頼家の乳め母の夫と比企氏による実朝の乳母夫北条氏への圧力が強まるに及んで、義時も時政に従って比企氏滅亡へと舵を切った。建仁三年(1203)九月、時政の比企能員謀殺後、義時は能員の娘若狭局が産んだ頼家の長子一幡が籠る小御所を攻撃した。『愚管抄』によれば、脱出した一幡を探し出して殺害させたのは義時だった。時政が擁立した実朝を守るため、頼朝に学んだ非情な決断と断固とした行動力を発揮したのである。

 これは畠山重忠滅亡の際にもうかがえる。元久二年(1205)六月、謀反の咎で重忠を討つよう時政から命じられた義時は、確かな証拠がなければ慎むべきだと、初めて父の言葉に異を唱えた。結局は大軍を率いてわずかな兵力の重忠を討ったが、鎌倉に戻ると時政を非難した。時政の非を世に広く知らしめると同時に、無実の罪で重忠を討った罪悪感を御家人たちに共有させたのである。非情さ、的確な判断力、果断な行動力を、義時はすでに身につけていた。

 ただ、そうした面だけでは御家人たちの支持は得られない。北条氏が擁立した実朝が成長し、政所を拠点に将軍親裁を推進し始めると、義時は将軍に次ぐ幕府NO.2、政所の筆頭別当すなわち執権として実朝を支えつつ幕政を運営する道を選んだ。これは主君たる将軍を立て、自らは必要以上に出しゃばらず、政所や、和田合戦後は侍所も含む幕府の組織を重視する政治姿勢であった。右大将家政所、次いで将軍家政所を重視した頼朝晩年の政治姿勢にも通じる。

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