歴史道 Vol.19
歴史道 Vol.19

 かくして近い親族が北条と江間に集まった。元をたどれば頼朝が伊東で起こしたトラブルが原因なのであるが、頼朝は時政が大番役で上洛すると、安元二年(1176)三月頃、今度は政子と交誼を結び、治承二年(1178)もしくは同三年、大姫が誕生する。当時、伊豆国の知行国主は源頼政、国司は子の仲綱、目代は孫の有綱であった。国衙の在庁官人だった時政は二人の結婚を認め、頼朝を身内として支えるようになる。 義時は、流人とはいえ貴種である頼朝の身内となり、常に間近で観察するという貴重な機会を得た。これが義時の人格形成に多大な影響を与えたことは、想像に難くない。と同時に、頼朝の今の妻である姉政子、江間に住む頼朝の元の妻八重を意識しつつ青年期を送ることになった。 

頼朝の長所・短所をつぶさに観察し、
自らの成長の糧とした義時

 治承四年(1180)八月十七日、流人であり、直属軍を持たない頼朝は決死の挙兵に踏み切った。時政・義時父子は身内として頼朝を支えた。頼朝は石橋山合戦で大敗するも、安房に渡海して再起を遂げ、十月六日、源家ゆかりの地である鎌倉に入った。そして、富士川合戦で平氏軍が敗走した後、武士たちの進言に従って鎌倉に帰還し、十二月十二日、新造した侍所で着到の儀を行った。頼朝は「鎌倉殿」、武士たちは「御家人」となった。

 その後、頼朝は木曾義仲、平家、奥州(平泉)藤原氏などを滅ぼすとともに、公文所(のちの政所)を整備、問注所を新設するなど幕府の組織を整備した。建久元年(1190)、上洛して「治天の君」後白院と会談し、権大納言・右近衛大将という公卿の官職に任じられ、後白河死後の建久三年七月には征夷大将軍となった。

 頼朝政権下における義時の動向は不明な点が多い。ただ、流人時代から自分を支える義時に頼朝が厚い信頼を寄せていたことは確かである。義時を、毎夜、頼朝の寝所を守る「寝所祗候衆」(『吾妻鏡』治承五年四月七日条)や、三原野の狩りに際しては「弓馬に達せしめ、御隔心なきの族」(建久四年三月二十一日条)に選んでいるのである。

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