2月1日に89歳で亡くなった元都知事で作家の石原慎太郎氏。若いころから皇室について公の場で率直な意見を延べ、皇室と国民は、どのような関係であるべきかーーそう問いかけ続けた人でもある。過去の発言や原稿から見える皇室観から石原慎太郎という人間をいまいちど振り返りたい。
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1959(昭和34)年4月10日、世紀の恋愛と評された明仁皇太子と美智子さまのご成婚が執り行われた。
日本中が熱狂したこの時に起きた「事件」を記憶している人は、もう少ないかもしれない。
おふたりの乗ったご成婚パレ―ドの馬車が二重橋を出て祝田橋を渡ろうとした直前、一人の少年がおふたりに向かって投石し、馬車によじ登るという事件が起きたのだ。
それから数カ月後。若き青年であった石原氏は、月刊『文藝春秋』8月号に、「あれをした青年」という原稿を寄せた。
<皇室や皇太子の問題は僕にとって考える必要のない関心の外にある。いや、外と言うより、思考以前に無意味なものでしかないと思う。天皇が国家の象徴などと言う言い分は、もう半世紀もすれば、彼が現人神だという言い分と同じ程笑止で理の通らぬたわごとだと言うことになる、(略)>
石原氏が書いた「あれをした青年」とは、投石事件を起こした少年のことだ。
騒動のあと、この少年が石原氏を訪ねてきたのだという。そして、天皇制への反発や奉祝ブームへの違和感から投石した心情を訴えたそうだ。石原氏は、少年に対して、こう共感を寄せた。
<天皇制を、皇室の関心の対象から無意識にしめ出している我々の世代の実感を僕は健全と思う>
石原氏は、対象が皇室であろうと自らの考えをまっすぐに論じている。
石原氏が生まれたのは1932(昭和7年)。上皇さまより一つ年上で、ともに10代前半で終戦を迎えている。
皇室に対して不信感を抱き続け斜めに見る姿勢は、戦争を体験した世代としては珍しいことではない。
その石原氏の皇室観が如実に見えたのが、五輪招致の一件だ。
2006年、3選をかけた都知事選で石原氏は、公約として東京への16年夏期五輪招致を掲げた。石原氏は、『招致の顔として、皇太子ご夫妻に10月の国際オリンピック委員会(IOC)総会への出席を』と求めたという。
石原氏は、皇太子さまの五輪誘致支援を実現させるべく、官邸に働きかけた。 7月1日、石原氏は森喜朗元首相と官邸を訪れ、招致の顔として皇太子さまの協力を得たい、と福田康夫首相(当時)に伝えたのだ。