上田城本丸跡に入るための東虎口櫓門
上田城本丸跡に入るための東虎口櫓門

 東北から九州まで、関ヶ原合戦は9月15日の「本戦」だけではなく全国で局地戦があった――。慶長5年(1600)7~10月にかけて、東西両陣営が全国で熾烈な局地戦を展開していた。日本を真っ二つに割った戦いは東北・九州にまで波及し、地方でもさまざまな野望が交錯していた。地方の戦いの戦況によっては、日本を真っ二つに分けた戦いがその後も続いていたかもしれないし、勝敗すら変わっていた可能性もある。週刊朝日ムック『歴史道 Vol.16』では、主な「局地戦」を徹底解説。今回は、真田父子が知略を駆使して戦った「第二次上田合戦」を取り上げる。

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 関ヶ原の戦いといえば、通常は慶長五年(1600)九月十五日、美濃の関ヶ原において、東軍徳川家康と西軍石田三成との間で行われた合戦として知られている。しかし、戦いはその日、その場所だけで行われていたわけではない。関ヶ原における決戦の前後、全国各地で東軍と西軍が戦いを繰り広げていたのである。

 そもそも、関ヶ原での本戦がわずか1日で終結したのは結果論に過ぎない。応仁・文明の乱が実に11年間にわたって続いていたように、関ヶ原の戦いにおいても、地方では、本戦前から戦いが始まっており、本戦の後にも戦いが続いていたのである。

【第二次上田合戦/慶長五年9月5日~8日】

 会津征伐に向かう際、徳川家康は子の秀忠に徳川譜代の大名をつけ、前軍として進軍させていた。小山評定で会津攻めの中止が決められたあと、家康は自ら外様大名を中心とする後軍を率いて東海道から西上すると、秀忠率いる前軍には3万8000余の軍勢で東山道から西上することを命じた。この秀忠率いる徳川軍の主力に立ちはだかったのが、上田城の真田昌幸・幸村(信繁)父子である。

 真田家は、昌幸の嫡男信幸(信之)は岳父が徳川四天王の一人と称される本多忠勝であったため東軍についたものの、昌幸と信繁は西軍についていた。昌幸の正室と三成の正室は、ともに宇多頼忠の娘であったとされ、それが事実であれば、二人は相婿ということになる(諸説あり)。

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勝ち目はなかった真田勢