そして赴任6年目となった2018年度の選手権予選決勝では、同年のインターハイで全国3位に入った昌平を相手に先制されたものの、集中した守りで相手の攻撃を跳ね返し続け、同点、逆転に繋げた。終盤は相手の猛攻に遭ったが、各々が各々をカバーしあいながら「南高のゴールを守るんだ!」と魂を持ってゴールを死守し17年ぶりの栄冠に輝いた。野崎監督は「『塊』は土偏に鬼と書く。じゃあ鬼ってなんだ。鬼は非常無比。『魂』はどう書くか。鬼が云ったことを伝えるんだと。俺やコーチが伝えたことを胸にしまってプレーせよ。それが魂ということ。昭和のサッカーと言われても私が批判を受ければいい。でも子供たちは本当にその通り、鬼の云うことを魂を持ってやってくれたなと思います」と選手を讃えていた。現在も昌平とは毎年のように好バウトを演じている。

●サッカー少年の憧れだった紫紺のユニフォーム

 その浦和勢に続くムーブメントを作ったのが、大山照人前監督が率いた武南高校だ。当時はまだ私学がサッカーの強化を行うという土壌がなかった中で「打倒浦和勢」を掲げてスタート。選手の特徴を生かす指導や県外にも足繁く通いながら強化を進め、赴任7年目で初の選手権切符を掴むと、その2年後の1981年に韮崎高校(山梨)を破って全国制覇を果たした。ちなみにこの時の優勝が埼玉県勢では最後の日本一となっている。1989年大会も決勝に進出、1990年、1992年大会でも3位に入るなど、選手権出場14回は県内最多。全国のサッカー少年にとって紫紺のユニフォームは憧れの存在だった。

 これまでに池田太(元浦和)、上野良治(元横浜FM)、室井市衛(元鹿島ほか)、浅利悟(元FC東京)、斉藤雅人(元大宮)、金沢浄(元磐田ほか)をはじめ多数のJリーガーを輩出。しかし2000年前後を境に地元の選手の県外流出が始まると、県内にもライバルとなる私学が多く出てきたことにより選手が分散。

「なかなかエース格を連れてきて、そのエース格を育てることができなくなってきた時代。そうするとその頃には少しずつ組織プレーを導入していかないといけなくなってくる。それで全国に行くと接戦した時にこれだっていうのがない。苦戦している時にこの一本というのがない。困った時にあいつだったらなんとかしてくれるというような、エース格の選手が募集できなくなってきていた時代」と大山監督も以前、話していた。

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東京の古豪も復活の予感