為末さんは、もう一つ、選手の置かれた状況のわかりやすい例を教えてくれた。為末さんは、マラソン選手だった高橋尚子さんに引退の瞬間はどんな気持ちだったかを尋ねた。その答えは、トップ選手の心理状態をよく表していたという。

「高橋さんは、引退を表明したとたん、かかとが地面に着いた気がして、『あ、私ずっとつま先立ちだったんだ』と言っていました。私にはよくわかりました。常に緊張していて重圧を感じているのですが、その普通じゃない状態に慣れすぎてそれが普通だと感じてしまっているんです。引退をした瞬間にものすごく強い脱力感がありました」

 アスリートといえども、そういう状態に長く耐えうるわけではない。例えば、国際プロサッカー選手会が行った調査によると、不安障害やうつ症状は現役選手で38%が、睡眠障害は現役選手で23%、引退選手で28%の人が悩まされていたという。一般と比べて不安を抱えやすい傾向がうかがえるだろう。また、スポーツ選手は内面の不安を吐露しにくい環境にもある。アルコールで発散できないし、弱音を吐こうにも周囲は利害関係者ばかりということが多い。

「精神的な不調によって振り落とされてきた人はたくさんいます。残念ながら、これまでスポーツの世界では、それは個人の心の弱さだとみなされてきました。本当は適切なサポートを受けられていたら、すばらしい選手になっていたかもしれないのです。その環境で生き残った選手がコーチになるよりその傾向が強くなるという生存者バイアスがかかっているのです。例えば、繊細な人は共感力が高く、それは対戦競技では相手の心理を読むことにもつながり、能力の一つとも言えますが、この才能を見落としていた可能性があります」

 だからこそ、トレーニングにおいては心や性格を鍛えるという発想よりも、「自分の本質的な性格は変わらない」と考えることが重要だという。

「自分を変えることはできませんが、自分の扱いを学習することはできます。指導者は自分の想像する理想の選手になるように、目の前の選手を矯正していくのではなく、その選手の特性を活かせるようなアプローチに変えるべきです。例えば、自責傾向にある選手は何かと自分のせいにして抱え込むので励まして言葉をたくさん吐き出させる。他責傾向にある選手は抱え込みにくいですが失敗から学びにくいので、自分にできたことは何かを考えさせるというふうにです。私は選手の裁量を大きくしたいので、意思がない選手には合わないでしょうね。選手にも自分以外の何かになろうとするのではなく、自分を認め、自分の延長線上に目標を置くようにいつもアドバイスしています」

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スタートラインに立ったとき、罵声を浴びせられるんじゃ…