しかし、太田はここからがすごかった。84年ロサンゼルス大会、88年ソウル大会、92年バルセロナ大会に三回続けて出場している。84年と88年は銀メダルを獲得した。「ボイコットが悔しくてその借りを返したく、できるだけオリンピックに出てやろうと火が付いたのでしょう。ボイコットはカーター大統領が決めたことに日本が従いました。そのカーターがノーベル平和賞を取ったとき、がっくりきました。ボイコットが戦争終結につながったとされていますが、スポーツは切り離してほしかった。やはりボイコットはおかしい。その決断は日本政府ではなく、JOCが行うべき。将来、モスクワと同じようなことがあっても、個人でオリンピック旗を掲げて出場すべきです」

 現在、早稲田大スポーツ科学部教授。比較格闘技論などを教えている。

■誰に文句を言えばいいのかわからなかった

 モスクワ大会のボクシング代表には中央大関係者からは5人選ばれている。うち、4人は学生だった。

 副島保彦は小学校6年からボクシングを始め、そのころからオリンピック出場を目指していた。横浜高校(神奈川県)の出身で、高校チャンピオンになっている。1978年、中央大に入学した。

 オリンピックのボクシング代表になるためには、各階級で日本一を決める「ベルト争奪戦」を制さなければならず、副島はそれに勝って代表の座を射止めた。80年4月のことだ。副島はライトウエルター級で、同年代には近畿大の赤井英和がいる。ベルト争奪戦の過程では赤井を一ラウンドKO勝ちで退けている。

 副島はボイコットについて、テレビで知ることになる。こうふり返った。

「正直、オリンピックに出られるかは半信半疑で、前年からボイコットが囁かれていたので覚悟はしていました。人に殴られて裁判に訴えるという話ではなく、誰に文句を言えばいいのかわからなかった。代表選手の仲間うちで話すこともない。世の中がボイコットについては誰も触れないという雰囲気で、ボイコットで不思議な時間を過ごしたという感じです」

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「布団をかぶって泣きました」