大手広告会社「電通」の新入社員だった高橋まつりさん(享年24)が自ら命を絶ったのは、2015年12月25日のこと。5年目の命日を迎え、母の高橋幸美さんが手記を寄せた。在りし日の笑顔とともに、ここにその全文を公開する。(AERA dot.編集部)

【写真特集】在りし日の高橋まつりさん

まつりの5年目の命日によせて

高橋 幸美

2020年12月25日

「こんな富士山のある田舎で育ったのは、今思えば、幸せだったのかもしれないな。お母さんと弟とカニを捕まえたり、ホタルを見に行ったり、川で泳いだり・・・」
とまつりが語ったのは、なくなる2、3カ月ほど前のことでした。

まつりが亡くなって今年で5年目のクリスマスを迎えました。

最愛の娘、生きていたら29歳です。

まつりはいつも「お母さん、お仕事終わったの」と電話してくれました。
東京に行くと駅まで迎えに来てくれて「お母さん大好き」とぎゅっと抱きしめてくれました。まつりの笑顔が私の幸せ、生きる希望でした。
いつかの誕生日のように「お母さんおめでとう」と突然帰ってきてくれることを夢見ています。

でも、私が仕事帰りに向かうのは娘のお墓です。

どんなに娘を思っても、二度とまつりを抱きしめることはできません。

娘のベッドには小さい頃のパジャマとお人形とぬいぐるみ。

娘の眠る赤い箱の前には、小さい頃遊んだオルゴールの宝石箱。母の日の手紙。きらきらのアクセサリーや口紅。娘が可愛がっていたの「ももちゃん」。たくさんの娘の遺した大切な娘の息遣いと一緒に、私は5年間なんとか生きてきました。

「死んだ子の年を数える」と言いますが、嘆いても仕方のないことだとわかっていても、最愛の娘が生きた24年間の一瞬一瞬をひと時も忘れることなどできません。最愛の娘を失った苦しみは一生癒えることはありません。

5年前、まつりは確かにこの世界に生きていました。

「こんなに辛いと思わなかった」

「休職か退職か自分で決めるからおかあさんは口出ししないでね」と言ったまつり。「会社の色んな人に相談したからもう大丈夫になったはず」と11月に私に言ったのに、徹夜労働や深夜勤務は続いていました。
2015年12月25日クリスマスの朝、入社後わずか9カ月、24歳になったばかりの人生を終わらせました。

私は駆けつけた警察で娘の自殺の原因を尋ねられた時「仕事が原因です」とすぐに答えました。

「電通に入社しなければ、あの部署に配属されなければ、娘は自ら命を絶つことはなかったのだ」と後悔はつきません。

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「早く自立して母に仕送りをしたい」