●滅亡した平家の菩提を弔う
寂光院の創建は594(推古天皇2)年、聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために開かれたと伝わる古刹である。このお寺を何よりも有名にしたのは、壇ノ浦で源氏に追われた平家一族が入水自殺をした折、海中から引き上げられ助けられた平徳子(父は平清盛、高倉天皇の皇后でこの時亡くなった安徳天皇の母。建礼門院)が出家し過ごした場所ということだ。平家物語にも登場し、のちに後白河法皇が建礼門院を訪ねる話「大原御幸」は特に人々に愛された。これが事実かどうかは議論の余地があるが、平家滅亡の象徴としての建礼門院の哀れはいつの時代も人の心を揺さぶる。時代は下り、豊臣秀吉の側室・淀殿も秀吉亡き後、寂光院に本堂を寄進している。
●本尊の胎内地蔵は無事
2000(平成12)年5月9日、淀寄進の本堂が放火により全焼してしまう。堂内の本尊・地蔵菩薩もほぼ焼失、建礼門院と阿波内侍(寂光院第2代住持、建礼門院に仕えていた)の像も失われてしまった。しかも、07年に時効が成立してしまい犯人は不明なままだ。15年前、火災後に再建された寂光院の姿を見て、今でもその衝撃を覚えている。私にとって寂光院は京都を訪ねた際に必ず赴く場所だったから、新しく立ち上がったお堂の姿と仏像の前に座った時の違和感があまりに大きかったのだ。幸いにも、本尊の内部まで火が回っておらず、胎内に収められていた多数の地蔵菩薩の小像は無事であったことが何よりである。
それにしても、この隠れ里と言われる大原で、隠棲していた尼僧の寺に火をかけたいと思う気持ちが全くわからない。犯人はきっとすぐに捕まると思っていたのだ。私でさえ今でも思い出すと胸が悪くなるのに、関係者の方々の思いはいかばかりか。江戸時代の大火、明暦の大火の火元は本妙寺(実はいろいろな説もある)で、明和の大火は大円寺の僧による放火である。仏教に詳しくなれば地獄についても学ぶであろうに、火つけの罪がどれほどの地獄に落とされるのか知らぬはずはない。今からの季節、ちょっとしたボヤが大火事につながる。悪心はおこさないに限る。
明日、12月13日(旧暦では1月25日)の建礼門院の命日を前にして、再び昔の怒りを思い出した。(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)