中島氏は笑う。

「今はもちろん体罰はダメですが、当時は当たり前の時代でした。それでも木内さんは、厳しくすれば吉田は野球をやめてしまうとわかっていたのでしょうね。一方の僕はそういう役回りで。部員を見たら、みんな下を向いて笑いをこらえていました」

 木内さんと言えば「木内マジック」と評された采配が有名だ。84年の春の選抜甲子園に出場した下田和彦氏(中学生硬式野球チーム・取手ファイトクラブ監督)は不思議な体験をした。

 2回戦の終盤に試合を決定づける本塁打を放ったが、実は木内さんが出したスクイズのサインを見落としていた。

「木内さんはベンチでサインを出しながら、『あいつ見逃すぞ、見逃すぞ、ほらやっぱり見逃した』とつぶやいていたと、ベンチに帰ってから知らされました。なぜ見落とすとわかったのか、いまだに謎です」

 その選抜甲子園で初の8強入りを果たした取手二。ヤンチャ軍団は、周囲からちやほやされる空気にあっさり飲まれた。

「みんな天狗になって練習にも身が入らず、チームがばらばらになってしまったんです」(下田氏)

 宿舎でのミーティング中に雑誌を読んでいた吉田氏と下田氏に、木内さんが茶わんを投げつけたこともあった。

 さらに事件は起きる。木内さんは、レギュラー当落線上の選手にはとても厳しく、「やめちまえ」「来なくていい」と強い言葉をかけるのは当たり前だった。小菅勲(現土浦日大高監督)という内野手が退部を申し出たのをきっかけに、「木内はひどい」とレギュラー選手も追随。夏の甲子園予選が翌月に迫った6月に、3年生全員で練習をボイコットした。

「僕と吉田の2人で、木内さんに直接話に行きました。何回か話した後、『全員を集めてくれ』というので、木内さんと全員でグラウンドで会うことになりました」(下田氏)

 直接不満をぶつけ、もう一度野球をやろうかという空気が出てきたとき、木内さんが突然、吉田氏を抱きしめて叫んだ。

「お前らがいなくなったらどうするんだ、俺は!」

次のページ
実は大の「巨人ファン」だった