24日に肺がんで亡くなった高校野球界きっての名将・木内幸男さん(享年89)。弱小だった取手二高(茨城)を強豪校へと育て上げ、1984年の夏の甲子園では桑田、清原のKKコンビ擁するPL学園(大阪)を破り全国制覇を成し遂げるなど、その采配は「木内マジック」と呼ばれた。その豪快なキャラクターも人々をひきつけ、今も木内さんを慕う教え子は多い。取手二高の当時3年生だった優勝メンバーが、木内さんの「伝説」を振り返った。

【写真】木内さんの「教え子」で、巨人でも活躍したのはこの選手

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 真偽はさておき、茨城県にはヤンキーが多いとされる。1980年代といえば、漫画「ビー・バップ・ハイスクール」が大流行するなどヤンキー隆盛の時代。取手二高野球部もご多分に漏れず、グラウンドを離れればバイクを乗り回すはタバコをふかすは、けんかするはのヤンチャな部員たちがいた。後にプロ野球の近鉄や阪神で活躍した吉田剛氏は、その一人だったという。

「確かに野球部は今の高校野球では考えられないくらいの個性派ぞろいでした。吉田はキャプテンでしたが、グラウンド外では確かにヤンチャで、ヤンチャする前に僕が止めたこともありました。木内さんはよくあんなバラバラな集団の手綱を締め、ひとつにまとめたなと思います」

 そう懐かしむのは副キャプテンで5番捕手、84年夏の決勝戦で延長10回、桑田から勝ち越し本塁打を放った中島彰一氏(現日本製鉄鹿島硬式野球部監督)だ。

 教員ではなく監督専従だった木内さんは「俺は先生じゃないから」と選手の私生活を叱ることはなかった。特にヤンチャな吉田氏には放任の姿勢だったという。

 ある日の練習中、木内さんが激怒し、吉田氏と中島氏を部員全員の前に立たせた。まずは吉田氏の前に立って手を振り上げ、いざ鉄拳制裁、と思わせたが、振り下ろした平手は吉田氏の頬でぴたりと止まった。痛くもかゆくもないビンタ。本当に殴るわけじゃないのかという空気が漂った直後、中島氏は強烈なビンタを食らい崩れ落ちた。

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「お前らがいなくなったらどうするんだ、俺は!」