ところが、93年7月、たまたまイースタンの試合を観戦したことが、野球への情熱を再びよみがえらせた。

「もう一度挑戦してみたい」と毎朝5時半に起床して、近所の公園で父のノックを受け、午後は自宅のトレーニングルームでバーベルを上げた。バッティングセンターにも週4回通い、200球の打ち込みを行った。

 気がついてみれば、身長が4センチ伸び、体重も9キロ増えて、打力が見違えるようにパワーアップしていた。

 翌94年春、知人を通して日本ハムの関係者を紹介されたのが縁で、プロ入りへの道が開けた。

 三沢今朝治編成部長は「打撃が魅力で、ずっと気にかけていた」とブランクを経て成長した努力を評価。上田利治監督も「細身だがうまい選手。甲子園でのプレーも記憶に残っている」と強い関心を示し、指名が実現した。

 日本ハムでは3年間で9試合しか出場できなかったが、98年、野口寿浩との交換トレードでヤクルトに移籍すると、05年に正二塁手として自己最多の130試合に出場し、同年から08年まで選手会長も務めるなど、フリーターから主力へと大飛躍を遂げた。

 一流企業に就職しながら、野球への未練断ちがたく退職。しかも、高校、大学時代に未経験だった投手に挑戦して、2年越しでプロ入りの夢を叶えたのが、98年の広島8位・広池浩司だ。

 立大時代は1年から4番を打ち、六大学の花形選手として活躍したが、ドラフト指名されなかったのを機に一度は野球をあきらめ、野球部のない全日空に就職した。

 だが、羽田空港のカウンター業務に就いた2年目の夏、高木大成(慶大-西武)をはじめ、大学時代に神宮でともにプレーしたライバルたちが、遠征の際に空港をスター然として歩く姿を見て、「自分にとって一番大切なのは野球なんだ」と痛感させられた。

 そんな矢先、スポーツ紙の片隅に載っていた広島の入団テストの記事に目が留まり、迷うことなく、投手として応募した。野手としては大学時代にドラフトにかからなかったことで限界を感じ、「左投げだし、投手としてしかあり得ない」と考えたのだ。

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一度は諦めたプロ野球選手の夢が再び…