一方、11年にドラフト1位で日本ハムに入団した斎藤は、1年目に6勝。2年目は開幕投手に指名された西武戦で完投勝利を挙げるなど、オールスター前までに5勝したが、同年夏に肩の違和感から低迷する。その後、右肩関節唇損傷であることが判明。手術して完治した例は希少で、ソフトバンクのエース・斉藤和巳や西武の守護神・森慎二も手術後、復帰をはたせないまま引退した。このため、斎藤は手術を回避し、騙し騙しプレーを続けているが、13年以降、昨季までの8年間でわずか4勝。この2年間は未勝利と結果を出せないでいる。

 結局、最初の2年間で11勝を挙げたのが、プロでのピークとなり、わずか2年足らずのピーク後に肩の故障との闘いという、江川同様の道を歩んでいるのは、不思議な偶然と言えるかもしれない。

 実は、江川も肩を痛めた直後、当時米国スポーツ医学の権威だったフランク・ジョーブ博士に切開手術を勧められたが、悩んだ末、「絶対に成功するという保証がない」という理由で断っている。この時点で、江川は自分の現役生活が長くないことを覚悟した。

 83年以降、肩の状態は年々悪化し、「100球肩」「6回戦ボーイ」などと酷評された。そんななか、85年8月3日の阪神戦では、低めを丹念について打たせて取り、プロ入り後初の1安打完封劇を演じている。

 先発で5試合続けて結果を出せなかった不振から脱け出すための苦肉の策だったが、もし、この阪神戦を境に軟投派にモデルチェンジしていれば、選手寿命はもっと延びていたはずだった。

 だが、江川はあくまで高めの速球で勝負するイメージを追いつづけ、それが満足にできなくなったときが自らの引き際と決めていた。また、入団時に揉めて悪い印象を残した江川は、「辞めるときは、きれいさっぱりといきたい」と考えており、87年に13勝を挙げ、巨人の4年ぶりVに貢献したのを花道に、プロ10年目、東京ドームオープンという節目の年を前に早過ぎる現役引退となった。

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2人には高校からプロ入りしていればの声も