「千葉へ帰ると落ち着くけど、もうかなりの割合で名古屋人だね。良いことも悪いこともたくさんあったけど、良い場所と巡りあえた」

『ヘディング=珍プレー』ばかりクローズアップされるが、野球人としても一流。

 1年目から1軍出場を果たし3年目にはショートのレギュラーに定着、80年には規定打席に到達するなど着実に成長を重ねる。81年の衝撃事件を挟み、84年に本塁打王獲得(37本で阪神・掛布雅之とタイトルを分け合う)、翌85年は41本塁打を放つなど右の大砲としてチームを引っ張った。

 中日での16シーズンで、20本塁打以上を9度記録した強打者だった。

 印象に残っているのは84年、掛布との本塁打王争い。シーズン最後の2試合、阪神相手との直接対決で敬遠合戦になった。この件について「当時はまだ若かった」と振り返る。

「同郷で3つ年上の大先輩(掛布は千葉・習志野高)。試合前には両チーム監督と掛布さんで話し合って、タイトルを分け合おうということになっていたらしい。今と違ってそういう牧歌的なこともあった時代。でもまだ僕は若くてその辺の事情はわからなかった。正直、なんでだろう、とも思った。また、仮にタイトルを獲れなくてもその後の野球人生でチャンスもあるだろう、とも考えた。でも現役を通じて本塁打王はその年1回だけ。結果論になるけど、今考えれば必要だったのかなとも思う」

 両チームの順位もすでに決まっており、掛布は全イニング出場をしていた状況。その中でのタイトル争いは難しかった、とも付け加えてくれた。

 また、落合との出会いも宇野のキャリアに影響を与えた。

「打撃について多くのことを話させてもらった。いろいろと質問したし、僕自身の考え方も話した。打撃なので感覚的なことが多かったけど、投球の呼び込み方と手首の使い方が印象に残っている。自分の間合いまでいかにして投球を呼び込めるか。そのうえで手首を柔らかく使って逆らわずに打ち返すか。自分にしっくりくることが見つかって、実際に中堅から右方向(=逆方向)への打球が飛ぶようにもなった。同じチームでできた時間はかけがえのないもの」

 82年に史上最年少で三冠王となった落合は、3度目の三冠王を獲得した86年オフ、4選手との交換トレードでロッテから中日に加入。歴史に残る天才打者は大きなものを与えてくれた、と語る。

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中日の一員として現場復帰は?