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予選では大活躍だったのに…五輪の本大会では「姿を消した男」たち

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シドニー五輪の予選では大活躍だった平瀬智行(左から2人目) (c)朝日新聞社

シドニー五輪の予選では大活躍だった平瀬智行(左から2人目) (c)朝日新聞社

 アジアと世界の間で戦う日本サッカーにおいて、「予選」と「本大会」の差は大きいと言わざるを得ない。戦力的に立場、戦い方を変える必要がある中で、予選では活躍しても本大会では振るわなかった選手、あるいは本大会のメンバーから漏れた選手、チーム編成や怪我などで本大会とは縁がなかった選手たちがいる。

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「五輪」に目を向けると、“マイアミの奇跡”を成し遂げた1996年のアトランタ五輪では2人のFWが本大会のメンバーから外れた。西野朗監督が率いた当時のチームには、前園真聖、城彰二、川口能活、松田直樹、そして中田英寿といった面々が名を連ねたが、本来、そのチームのエースだったのは、“レフティーモンスター”小倉隆史だった。

 四日市中央工業高校で選手権優勝を果たし、1992年に名古屋に入団。翌93年にオランダでプレーした後、94年にA代表デビューを飾り、キリン杯では強豪フランス代表からゴールを奪うなど、その実力、存在感は抜きんでたものがあった。

 しかし、最終予選直前の代表合宿中に右足後十字靭帯を断裂する大怪我を負って戦線離脱。その後、ひざの状態が元に戻ることはなかった。そして、その代役として期待された安永聡太郎も選考漏れ。清水商業高校のエースとしてインターハイ制覇などを果たして1995年に横浜Mに入団。同年のワールドユースで中田、松田らとともに日本史上初のベスト8進出に貢献し、アトランタ五輪の予選登録メンバー時には背番号10を与えられたが、1995年の直前合宿を怪我で辞退すると、チーム構想から漏れて本大会のピッチを踏むことはできなかった。

 それから4年後、“史上最強”としてファンの大きな期待を背負ったのが、2000年のシドニー五輪だった。A代表を兼ねたトルシエ監督のもとで予選から13連勝で五輪切符をつかんだが、そのアジア1次予選・フィリピン戦で、“天才”小野伸二が左ひざに悪質なタックルを受けてじん帯断裂の大怪我を負い、復帰後もコンディションが整わずに選考漏れとなった。さらにもう一人、不遇をかこったのが、FW平瀬智行だった。予選でチーム最多かつ全世界の予選最多となる17得点を挙げる大活躍を見せ、エースの座をつかんだはずだったが、本大会では高原直泰、柳沢敦に次ぐ3番手FWの扱いを受けてベンチ暮らし。本大会での出場時間は、途中出場2試合で計10分少々という短さだった。


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