京都電気鉄道京都市内線開業前日、試乗会での記念撮影=1895年3月31日 (c)朝日新聞社
京都電気鉄道京都市内線開業前日、試乗会での記念撮影=1895年3月31日 (c)朝日新聞社

漱石が大津から舟で下った琵琶湖疎水。2009年4月に筆者が訪れたときには、両岸の桜並木が満開だった(写真・筆者撮影)
漱石が大津から舟で下った琵琶湖疎水。2009年4月に筆者が訪れたときには、両岸の桜並木が満開だった(写真・筆者撮影)

 新橋停車場で清に見送られ四国へ旅立つ『坊っちゃん』。九州から上京する汽車の中で「亡びるね」と予言される『三四郎』。『心』の「私」は、危篤の父をおいて、列車に飛び乗り先生の遺書を読む。

【桜並木が満開の漱石が下った琵琶湖疎水の写真はこちら】

 鉄道は漱石の小説の重要なモチーフだ。漱石自身も全国各地、外国でも、列車に揺られ、旅を重ねた。その漱石が最も多く訪ねたのは京都だった。漱石はどこを訪れ、何を見ていたのだろう。

『漱石と鉄道』(朝日選書)で、漱石の生涯や作品と、明治以後に急速に発達した鉄道との関係を詳しく述べた著者牧村健一郎氏が、漱石が見た京都を紹介する。

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■京都好きだった文豪

 漱石は元祖京都フリークでした。生涯に4度も京都を訪ねています。都合50日余、教師として赴任した松山、本、留学先のロンドンを除き、最も長く滞在した町でした。ほとんどの名所旧跡に足を運んでいます。

 最初は20代の学生時代、親友の子規とともに京都の町を歩いています(1892年)。2回目は教師を辞めて朝日新聞に入社を決めた直後の春で、いわば「漱石の春休み」(1907年)。最初の新聞小説『虞美人草』の題材集めの旅にもなりました。比叡山登山、保津川下りは『虞美人草』に生かされます。清水寺、南禅寺、銀閣寺、平安神宮など精力的に見て回ります。都おどりも見物しました。次は満韓旅行の帰りに神護寺、高山寺に立ち寄っています(1909年)。最後は亡くなる前年の春で、木屋町の宿に落ち着き、開通したばかりの京阪電車・宇治線で宇治・万福寺を訪ねています。ただ、持病の胃潰瘍が悪化、鏡子夫人が迎えに来ています(1915年)。いずれも行き帰りは鉄道です。

■観光で巻き返しを図った京都

 漱石が訪ねた明治から大正にかけて、京都は自己変革、変身の真っ最中でした。

 明治維新で天皇が東京に移り、京都は千年続いた首都の地位を失い、自らの立ち位置に苦慮します。幕末の5年間、京都は政争の中心地だっただけに、喪失感はひとしおだったことでしょう。平安遷都でにわかに衰えた奈良を教訓に「第二の奈良になるな」と京都は巻き返しを図ります。近代化するとともに、観光都市、文教都市への転身です。

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