この広瀬の改憲案作成に、外務省・大蔵省・防衛庁といった当時の主要官庁の官僚や内閣法制局の官僚らが、極秘裏に関わっていた事実も初めて浮かび上がった。そこからは、エリート官僚の現行憲法への反発がにじんでいた。

 政府・与党の改憲派は、こうした声を追い風に改憲への動きを加速させる。1956年には戦後唯一の憲法を調査・議論する政府組織である「憲法調査会」が内閣に設置され、改憲を理論的に後押しすることが企図された。

 そして政界や学会の改憲派から、憲法改正を求める声が盛り上がり、数多くの憲法改正試案が発表された。元法制局長官(現在の内閣法制局)の佐藤達夫は、この時期を「いわゆる“押しつけ憲法論”の最盛期」と呼んだ。

 しかし、こうした改憲派の姿勢は、戦争の記憶が鮮明だった当時の国民感情に必ずしも受け入れられず、改憲機運は1950年代半ばを頂点に沈静化していく。憲法調査会は1958年に渡米調査を行い、その報告書の結論の「むすび」で、憲法は「単純な押しつけとは言えない」とした。

 東京オリンピックが開催された1964年、憲法調査会が改憲を事実上棚上げする最終報告書を提出。憲法改正論議は完全に下火となり、日本は経済に重きを置いた道を選択していく。皮肉なことに、憲法改正を企図して設立された憲法調査会の議論によって、結果的に憲法改正が遠のいていった。

 周辺国をめぐる安全保障環境の変化で改憲論が活発化したこと、アメリカや日本の経済界の思惑が少なからず絡んでいること、憲法の内容以上に制定過程そのものを改憲派が問題視したこと、憲法9条をめぐる対立に議論が集中しがちとなったことなどは、現在の改憲論議とも重なる部分である。

 1946(昭和21)年の公布から70年以上が経過した日本国憲法。改憲に前向きな勢力は現在、衆議院では憲法改正発議に必要な3分の2を超え、参議院でも3分の2に迫る状況だ。憲法改正に意欲を示す安倍晋三首相の下、国会での憲法改正発議が現実味を帯びる。

 憲法は何のためにあるのか――。日本人が憲法改正を見つめながら歩んだ「15年」の足跡には、これからの改憲議論の参考にもなる重要な示唆がいくつも含まれている。

※『憲法と日本人 1949年-64年 改憲をめぐる「15年」の攻防』より一部抜粋、改変