なぜこんなことを書くかというと、雅子皇后が「適応障害」といわれたときのことを思い出したからである。雅子妃の「適応障害」がメディアで話題になっていた頃、ある精神科医からこういわれたことがあった。

皇室という環境が変わらないかぎり、妃殿下の病気は治らないでしょうね」

『天皇の財布』を書いた森暢平氏が、毎日新聞時代に宮内庁担当記者として配属されたとき、東宮侍医が雅子妃の体調を説明するのに「生理がありました」と発表することに違和感を覚えたと書いているが、皇室に嫁いだ妃殿下の生理をどうやってチェックしていたのだろうか。ごみ箱もチェックされていると聞いたこともある。当時は「適応障害」を雅子妃のわがままと受け取った国民も少なくなかったが、世間の常識から理解しがたい環境が、若き妃殿下を「適応障害」にしたのではないだろうか。

 雅子妃の悲運は、世間からすれば非人間的で異常としか思えない皇室の空気が、平成になっても変わらなかったことにある。戦前生まれの美智子妃はそのことに耐えられたが、戦後生まれの雅子妃には耐えられなかったということだろう。

 話は変わるが、美智子妃がおられた宮内庁病院三階の御料病室には、原書の詩集や育児書などと並んで、週刊誌や月刊誌も置かれていたという。

 当時の週刊誌は発行部数も100万部を超え、テレビに匹敵するメディアであった。当初この話を聞いたとき、美智子妃も週刊誌がお好きだったのだろうかと思ったりもしたが、それはあり得なかった。そのことに思いあたったのは最近のことである。

 明仁皇太子がご結婚された昭和34年はテレビ時代の始まりだった。この年だけで民放は21局も開局し、前年に100万台だった白黒テレビの台数が、ご成婚直前には一気に200万台に達している。もちろん「皇太子ご成婚パレード」を見るためである。『皇室アルバム』が始まったのもこの年だった。そしてその5年後には、東京オリンピックをきっかけにカラーテレビが急速に普及していく。

 テレビの普及と同時に、週刊誌が次々と創刊されたのもこの時分だった。もちろん美しい美智子妃を取り上げるためである。高度経済成長の波に乗った週刊誌は、数年もすると発行部数が100万部を突破した。ある意味で、国民が描く皇太子夫妻像は、テレビと週刊誌によってつくられていくのである。

 若き皇太子夫妻がそのことを意識されなかったはずがない。

 平成の象徴天皇像がいかにして創られたのかを取材していたときである。私の脳裏で突然、週刊誌を開く美智子妃の姿が浮かんだ。

 戦前の昭和天皇は姿を見せないことで威厳を保った。おそらく戦後の巡幸(昭和21~29年)が始まるまで、御真影を除けば天皇を見た国民はほんの一握りだろう。戦後、昭和天皇は象徴天皇になったが、ある意味ではまだ“大元帥”だった。しかし、テレビや週刊誌の登場はそれを変える。新しい時代は、むしろどう見せるかであった。新天皇像をどう見せるかは、「国民からどう見られているか」でもあったはずである。しかし、戦前は東宮仮御所の中で育てられ、学友以外に国民と交わることがなかった明仁皇太子に、国民からどう見られるかといった視点は想像もつかなかったはずである。一方で民間出身の聡明な美智子妃は、それが時代のトレンドになることを充分すぎるほどわかっていたのだろう。

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