1960年、浩宮を抱き宮内庁病院を退院する美智子妃 (c)朝日新聞社
1960年、浩宮を抱き宮内庁病院を退院する美智子妃 (c)朝日新聞社

目崎ノートの一部
目崎ノートの一部

1966年、東宮御所の庭で礼宮とくつろぐ美智子妃 (c)朝日新聞社
1966年、東宮御所の庭で礼宮とくつろぐ美智子妃 (c)朝日新聞社

1969年、東宮御所で紀宮をあやす美智子妃 (c)朝日新聞社
1969年、東宮御所で紀宮をあやす美智子妃 (c)朝日新聞社

 皇室史上初めて病院で出産された美智子さま

【知られざる歴史のすべてを明らかにした目崎ノートの一部はこちら】

 赤ちゃんは無事に生まれてくるのが当たり前と思われている現代と違い、産科医療技術が発展途上で、未熟児の死亡率も高かった1960年当時、「無事のご出産」という使命を背負わされた医師たちのプレッシャーは相当なものだった。

 皇妃の出産という「世紀のプロジェクト」はどのように進められたのか。

 美智子さまのご出産すべてに立ち会い、その経過を詳細にメモに残した医師がいた。

 宮内庁病院の当時の産婦人科医長であった目崎鑛太氏である。朝日文庫『美智子さまご出産秘話』では、目崎鑛太氏の秘蔵メモ「目崎ノート」から、知られざる歴史のすべてが明らかにされている。その「あとがき」を特別に公開する。

*  *  *

 出産という新しい生命の誕生に感動や驚きがあっても、私たちが生まれてくる過程に注目することはまずない。ところが皇室においては、生まれてくる過程は出産に匹敵するほど重要なのである。その理由は、「絶対の安全性」が要求されるからだ。とはいえ、出産の過程で起こったドラマはこれまで一度も表に出た事はなかった。それが、元宮内庁病院産婦人科医長の目崎鑛太氏が遺した『目崎ノート』によって、皇室の歴史上、初めて明らかになったのである。

 その『目崎ノート』を開いて驚くのは、世間の常識からほど遠いことが行われていることである。

 たとえば、「美智子妃ご出産」をめぐって、東宮系、東大系、宮内庁病院系の三者が三つどもえになって縄張り争いをしていることがそうだ。

 当時の美智子妃は、守旧派の人たちによる風当たりは強かったが、“ミッチー・ブーム”を巻き起こした世紀のスーパースターであった。そのスーパースターをお世話するのが東宮職員なのだから、たとえ「ご出産」であっても東宮の延長であると考えたようである。ところが美智子妃の「ご出産」がこれまでのように御所内の「御静養室」ではなく、皇室の歴史始まって以来初の病院出産だったからややこしい。通常の出産なら病院の医師に主導権がある。宮内庁病院の職員が、「我々が」と考えたのは当然だろう。一方で、「美智子妃ご出産」という国家的プロジェクトを任されたのは東大教授だから、陣頭指揮をとるのは東大側という暗黙の了解があった――。

 こうして三者が三様に角を突き合わせては火花を散らすのである。

 これを調整したのが目崎鑛太氏であった。豪放磊落というか、親分肌で気配りにたけた人であったから、当時の宮内庁には目崎氏以上の調整役はいなかっただろう。

「ご出産」をめぐって陰湿な縄張り争いが繰り返されるなんてただ事ではないが、世間の常識からすれば、「ご出産」そのものも異常であった。

 なんと、出産時に分娩室の若き美智子妃を囲むように、東大系、東宮系、宮内庁病院系を合わせて十名ちかくが立ち会ったのである。なかには妃殿下の産んだ赤ちゃんが取り替えられては大変だと、「お見届け役」までいたというから、当時25歳の美智子妃がよくぞこれに耐えられたと思う。さすがに皇太子(現上皇)も、この時代錯誤の出産をおかしいと思ったのだろう。礼宮出産のときには、分娩室へ入る人数を減らすようにと要求するのだが、結果的にたいした変化はなかった。皇太子の力では、皇室の空気を変えることは至難の技であったのだろう。

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なぜこんなことを書くかというと…