今回のコパアメリカに関しては欧州組とJリーグ主力組の招集が難航し、結果的に東京五輪を見据えたメンバーで赴くことになったため、森保監督が直接指揮できる状況になった。しかし、今後も両代表の活動日程が重なることが予想され、指揮官不在のケースは続くだろう。となれば、東京世代の選手たちから「森保さんにじかに見てもらいたいのに全く叶わない。このままじゃアピールもロクにできない」という不満や不信感が噴出することもあり得る。

 指揮官は「全てを自分1人でできるわけではないので、信頼できるスタッフの力を借りながら、オールジャパンでやっていきたい」と就任時から強調していたが、大半の情報を横内コーチらスタッフ経由で入手する状態のままでは、東京五輪本大会のメンバー選考やチーム作りにマイナス影響が出る恐れがある。そして一番肝心な選手との信頼関係も構築できなくなる可能性も否定できない。そこは見過ごせない点だ。森保監督本人も今、兼任の難しさを改めて痛感しているのではないだろうか。

 今から17年前の2002年日韓ワールドカップを率いたフィリップ・トルシエ監督も、U−20、シドニー五輪代表とA代表の3カテゴリーを指揮したが、やはり日程重複時には苦慮したことがあった。最たるものが、コパアメリカ(パラグアイ)とシドニー五輪アジア1次予選(東京)が同時期に行われた99年6~7月だ。

 トルシエ自身はA代表を連れてパラグアイに赴き、五輪代表は山本昌邦コーチが代行監督として采配を振るったが、エースFWの柳沢敦が合宿を抜け出し、当時交際中だったモデルと密会したことが発覚。所属クラブに強制送還という予期せぬアクシデントが発生した。さらには、眩いばかりの輝きを放っていた当時19歳の小野伸二がフィリピン戦で左ひざじん帯を断裂。「あれからプレーのイメージが湧かなくなった」と本人も苦渋の表情を浮かべたほど、サッカー人生を左右する大ケガを負ってしまったのである。

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トルシエ時代と現在では状況が異なるが…