「当時」とは、オリックスでプレーしていたころのことだ。1994年に、210本安打を放ち、打率は3割8分5厘。その翌年からも好成績はつづき、打率は3割4分2厘(95年)、3割5分6厘(96年)、3割4分5厘(97年)、3割5分8厘(98年)と、誰も文句をつけられないような実績を残している。しかしイチローは、このときこそが、光が見えてこなかった「どん底のまっただ中」だったという……。

「96年前後、あのとき、特にバッティングは、カタチがものすごく変わっているんです。足を開いたり、もういろんなカタチを試していた。あれは、自分のカタチが見つからない不安の証でもあったんです。(中略)なりふりかまっていなかったんです」(「一回裏 自分を客観的に見ること」から)

 誰よりもヒットを打ちながら、自分のカタチをつかむことに悪戦苦闘を続けるイチローに転機が訪れるのは99年4月のこと。きっかけは、ひとつの凡打だった。

「その凡打は、四打数ノーヒットでむかえた第五打席目、でした。セカンドゴロ。一塁に走っていく途中に感覚がつかめていたもんだから、ベンチに帰る途中、ぼくはニタニタ笑ってるわけですよ。それ見て、監督が怒った」

 通常は、いい打撃をする、ホームランを打ったり、ヒットを打ったりすることによって、「あ、自分はこれで大丈夫だ」と思うものだろう。しかしイチローは、そういう感覚は長く続かないのだという。

「長く続くもの、強いものというのは、『凡打をして、その凡打の理由がわかったとき』なんですね。こういう体の動きをしてしまったから、こうなったんだ。そういう答えが見えたときは、かなり強い感覚ではないかと思っています」(「二回表 ほんとうの進化」から)

 ちなみにニタニタしているイチローを見て怒った監督というのは、いわずもがな、鈴木一朗を「イチロー」という登録名でデビューさせた故・仰木彬監督のことである。仰木監督の逆鱗にふれたイチローは、翌日に居残り練習を命じられてしまう。ところがその日は、ともだちの結婚式だった。名古屋時代のともだちが、その日ならばイチローが出席できるというので、わざわざその日にしてくれたのに、出席することができなかったという。

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