イチローは松井秀喜をも凌ぐ本塁打を量産する力がありながら、なぜヒットにこだわったのだろうか。彼は2007年のメジャーリーグオールスターゲームのとき、報道陣に「打率が2割2分でいいなら、40本の本塁打を打てると言っておきましょう」という趣旨を冗談交じりに語ったという。そこから「王の恋人」と呼ばれた山口富夫打撃投手の言葉を思い出した。王貞治はミートする力が抜群にすばらしかった。ある日、山口は「王さん、ヒットだけ狙ったら軽く4割打てますね」と言うと、王はきっぱりと否定した。

「俺のヒットをお客さんが見に来ていると思うか」

 打率と本塁打は打撃技術の違いもあって、両立は難しい。イチローも本質的には王の言葉と変わらない。本塁打をヒットに置き換えると、そのままイチローの思いにつながるだろう。 

 それは凄まじいほどのプロ意識とはいえまいか。

 打者である以上、打撃の華である本塁打への誘惑は誰もが捨てがたい。だがあえてその誘惑を振り切り、イチローは黙々とヒットを積み上げることで、ついには本塁打以上の魅力を伝えることになった。それは数字に表れないイチローの功績であるといえる。まさにイチローが持ちえるプライドの表れであり、孤高の美学であった。(ノンフィクション作家 澤宮 優)※文中敬称略

■澤宮優(さわみや・ゆう)2004年『巨人軍最強の捕手』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。著書に『打撃投手 天才バッターの恋人と呼ばれた男たち』(講談社)『スッポンの河さん』(集英社文庫)、『イップス』(KADOKAWA)など。