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96歳元海軍兵が明かす「下っ端が、生き地獄を生き残るには3度も奇跡が必要」

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瀧本邦慶さん=2016年9月撮影

瀧本邦慶さん=2016年9月撮影

1939(昭和14)年12月、18歳。軍艦「八重山」に配属された直後の新兵時代。大黒帽式水兵帽すがた。帽子の前章には軍艦名「八重山」が金文字であしらわれている

1939(昭和14)年12月、18歳。軍艦「八重山」に配属された直後の新兵時代。大黒帽式水兵帽すがた。帽子の前章には軍艦名「八重山」が金文字であしらわれている

96歳 元海軍兵の「遺言」(朝日選書)

瀧本邦慶著/朝日新聞大阪社会部編集

978-4022630674

amazonamazon.co.jp

「いまもむかしも、えらい人は失敗の責任をとりません」「命令どおりの作業をやるしかない生き地獄を、生き残るためには、三度も奇跡が必要だった」

――最近のニュースのことかと思われるだろう。これは、先の戦争を生きのびたある元日本海軍兵が、70年以上も前の戦場でつかみとった結論だ。その人は『96歳 元海軍兵の「遺言」』(朝日新聞出版)の著者であり、現在は大阪市に住んでいる瀧本邦慶さん。17歳のとき、「お国のために死ぬ。これぞ男子の名誉」と20歳の徴兵検査を待たずに海軍に志願した。4等兵という「下っ端」から出発し、空母「飛龍」に乗りこんだ。以降、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦に従軍し、「餓死の5分前」に追いつめられた南洋のトラック諸島で敗戦を迎えた。戦後70年を経て戦争体験者が次々と世を去っていくなか、「戦争の生の姿」を語ることができる数少ない語り部だ。

【軍艦「八重山」に配属された直後の瀧本さん】

*  *  *
 語り部になることは考えていなかったんですよ。そんな気はぜんぜんありませんでした。75歳ごろのことでしたかな。新聞の死亡記事欄を見たら、語り部のかたが亡くなったと載っていました。これを読んでな、ほお、こんな人もおるんやなあと。わたしもどっちみちおなじ立場になるんだから、ここらで本気になって考えなあかんかなと。ぼけぼけしておられんなと。そういうことを思いはじめましたんやわ。それからです。

 こうして戦争体験をお話しできるのは、生きて帰ってきたからですね。わたしが生きとるのは、太平洋戦争中に3回の奇跡があったからです。

■最初の奇跡――機銃掃射を受けて

 一番目の奇跡は、ミッドウェー海戦(1942年6月)のときに起こりました。飛龍が1発目の爆弾を受けるまえのことです。

 アメリカの戦闘機が飛龍のななめうしろから突っこんできました。わたしは甲板の真ん中あたりにいて作業をしとりました。バババババババッと機銃掃射をあびせられました。とっさに甲板にふせました。わたしの右側20、30センチのところの甲板に着弾してパンパンパンパンパンとはしっていきました。

 機銃掃射が終わってからね、やれやれと立って体をのばしてみると、痛くもかゆくもない。ひきつづき作業をやっておりました。ところがね、甲板にあたってグシャと変形してはねかえった機銃弾が、わたしの右の肩甲骨あたりわきにあたっておった。そのときは気づきませんでした。痛くもかゆくもなかったからね。背中に軽い出血があると戦友に知らされたもんだから止血処置をしただけでした。その後、ミッドウェーから帰ってきて佐世保の海軍病院で機銃弾を摘出しました。機銃弾がもう少し左側によっていたら、わたしに直撃していました。そうなるともちろん即死です。機銃弾でも大きいやつだったら、直撃していなくてもわたしの首なんかありませんわ。わたしにとっては奇跡ですねん。


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