1年夏から「4番」に座り、外野手と投手を兼任すると、リリーバーとしても計8回を無失点、ベスト4進出に貢献すると、2年夏には背番号「1」。2回戦では瀬戸内・山岡泰輔(現オリックス)との投げ合いを制し、3回戦では森友哉(現西武)を擁する大阪桐蔭を相手に完投勝利を収めるなど、並み居る強豪たちを倒して、ベスト8進出も果たしている。

 3年春もベスト8。同夏には、1回戦で対戦した智弁学園・岡本和真(現巨人)から2三振を奪い、大会後に行われたU18アジア選手権の日本代表メンバーにも選出されている。この時も、主に「6番・左翼」を打ちながら、リリーフとしても登板している。

 3年時に優勝した長崎国体では、1回戦の沖縄尚学戦でサイクルヒットも達成。「二刀流」での活躍ぶりは、高卒の時点でも、ドラフトでの上位指名は確実視されていた。

 それでも、岸は「プロ志望届」を出さなかった。恩師の明徳義塾・馬淵史郎監督から「“大卒1位”でプロに行けるように」と勧められ、投打で更なるレベルアップを図るため、岸は馬淵監督の母校でもある、東都大学リーグの拓殖大への進学を決めた。拓大でも、1年春のリーグ戦から「3番・DH」で全12試合にスタメン出場。投手としても、3試合でリリーフ登板。「二刀流」での期待は高かった。

 しかし、未来を見据えた、最良の道と信じたはずの大学で、岸の野球人生が、思わぬつまずきを見せた。

「こっちをかばったら、こっちに来て……でした」

 右肘に違和感を抱えていた。それを無意識にかばったせいなのか、今度は右肩が痛くなった。「投げているときにしんどかったんです」。その悪循環は止まらず、投手としてのプレーをいったん断念。肩と肘のケアとリハビリに務めることにした。

 およそ1年後。

 2年生の6月。紅白戦で、復活のマウンドに立った。

「そのとき、ドンと来たんです。肘ですね。感覚ですけど、ピーンとなったんです」

 右肘が、伸び切ったような感じがしたという。

 その2カ月後の8月、側副靱帯再建術の手術を受けた。いわゆる「トミー・ジョン手術」と呼ばれ、松坂大輔、藤川球児、和田毅ら高校時代に岸と同じように甲子園で活躍し、プロに進んだ今もなお、現役で活躍しているベテラン投手たちも経験している。

 一線級で活躍する投手たちが、投げ続けることによる“勤続疲労”の一面もある。

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「野球を離れようと思っていました」