山本周五郎は1967(昭和42)年2月14日、63歳で亡くなった。
今年はその没後50年に当たり、生誕の地山梨県や居住した神奈川県の文学館で「没後50年 山本周五郎展」が催されるほか、テレビでは周五郎原作の旧作ドラマが放映されている。
山本周五郎の筆名は、「日本婦道記」が1943(昭和18)年の第17回直木賞に選ばれたことで知られはじめた。しかし彼は自ら受賞を辞退、主催者である文壇の大御所菊池寛を激怒させたことでより広くその名が知られるようになった。
「読者から寄せられた好評以外に、いかなる文学賞のありえようはずがない」という信念に基づく辞退だったが、周五郎の頑固一徹ぶりは世間を驚かせた。
更に周五郎は、「樅ノ木は残った」の毎日出版文化賞(版元の講談社だけの受賞となる)、「青べか物語」の文藝春秋読者賞も固辞し、その信念を生涯貫いた。
彼はその心境の一端をご子息の清水徹氏に次のように語っている。
「魚屋が、魚をいっぱい売ったからって、同業者を呼んでパーティーをするか? 本が売れるということはそれだけ普通の人が買ってくれる訳で、それが賞なんだよ」
余談だが、周五郎は総理大臣と天皇陛下が主催する園遊会の招待にも応じないばかりか、ひたすら書くことが供養だとして親類縁者、友人知人の葬儀にも一切顔を出さなかったという。
1970(昭和45)年、前年の「天と地と」で視聴率低迷の危機を乗り切った大河ドラマの第八作目は、そんな周五郎原作の「樅ノ木は残った」だった。