「僕が監督した『大奥(秘)物語』のとき、ふたりの関係はうすうす気が付いていました。菊之助が京都南座に出演しているときなど、純子ちゃんはソワソワして嬉しそうでしたからね。面白かったのは、当時、京都撮影所には鶴田、高倉らが作った『藤純子を守る会』というのがあって、彼女に手出しすることは絶対に許されませんでした。何しろ俊藤浩滋プロデューサーの愛娘で鶴田、高倉が後見しているのはみんな知っていましたからね。だから婚約発表の時は、歌舞伎役者に我らが姫を奪われたとスタッフは地団太踏んで悔しがりました(笑)」

 そんな芸能的な華やかさで語られることが多い「源義経」だが、「太閤記」に続いて演出を担当した吉田直哉は、最新の映像技術を駆使して斬新な映像表現を試みた。

 特に、空中撮影や水中撮影、絵巻物との合成を駆使した壇ノ浦の合戦シーンの迫力は素晴らしかった。また牛若丸と弁慶が五条大橋で出会う場面では、当時としては珍しかったワイヤーアクションで幻想的な映像を作り出した。

 更に、緒形拳演じる武蔵坊弁慶が全身に矢を受けてもなお、目を見開いた形相のまま立ちつくす立往生のシーンは迫力満点で、演出と演技が称賛された。

 しかし、そんなスタッフ・キャストの奮迅にも拘わらず、視聴率的には苦戦した。

大河ドラマの歳月」の著者である大原誠氏は、以下のように分析している。

「義経ブーム、武満徹氏の音楽、人気歌手舟木一夫、山田太郎の出演など、華やかな話題のわりには視聴率が上がりませんでした。全二作の年間視聴率が、共に三十一%を越えていたにもかかわらず、この作品の年間視聴率は二十三・二%と、八ポイントの落ち込みです。当時の制作担当・沼野氏の分析によると、『昭和三十九年の東京オリンピック以来、経済の高度成長期に入っていきます。この高度成長期において、従来の日本人が好んだ“"滅びの美学”は合わなかったのではないか』といいます。(中略)このようにテレビドラマは、そのときの時代背景に大きく影響されます。ヒットを飛ばす第一の条件は、作品選びの段階で、時代の在りようを見抜く先見の明が、制作者や演出家にあるかどうかのようです」

「源義経」は、大河ドラマの歴史は視聴率という数字との戦いであり、世相の変遷を推測する想像力が試される番組となった。(文/植草信和)

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植草信和

植草信和

植草信和(うえくさ・のぶかず)/1949年、千葉県市川市生まれ。キネマ旬報社に入社し、1991年に同誌編集長。退社後2006年、映画製作・配給会社「太秦株式会社」設立。現在は非常勤顧問。

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