ティラクさんはもともと、学生の頃から日本に興味があったという。「戦争であれだけぼろぼろになったのに、わずか数十年で復興を遂げた。本当にすばらしいと思わされました」

 ネパールで大学を出てからは、教師をしながら、ジャーナリストとしても活動。数々の取材をこなし、記事を書き、雑誌をつくり続けてきた。

 憧れていた日本を訪問してみると、そこには多くのネパール人たちが働き、暮らしていた。自分も、と思い一念発起、1997年に来日した。

 当時ネパール人は、品川区の西小山周辺に多かったのだという。「保証金や保証人のいらない安いアパートがたくさんあったんです」(ティラクさん)日本初のネパール食材店もオープン。やがて西小山から、近隣で交通の便がいい蒲田や戸越銀座へと移っていき、いまでは都内はじめ日本の各地にネパール人の拠点がある。「ネパリ・サマチャー」編集部がある、新宿大久保もそのひとつだ。

 念願の新聞を立ち上げたばかりの頃は、ネパールで印刷をしていたという。ネパール語のフォントを持つ印刷所がなく、責任を持って印刷できないと断られたからだ。ネットが普及したばかりの当時、メールでカトマンズにデータを送り、現地で印刷、それを日本に郵送した。

「当時の部数は500部ほど。たった1枚、表と裏だけのものです。日本に住んでいるネパール人も5000人くらいでした。彼らにまず、ファクスで見本誌を送ったんです」(ティラク)

 そこからはじまり17年、いまではネットでもニュースサイトを運営。広告主も旅行会社、レストラン、送金会社、コンピューター関連……。すっかり在日ネパール人社会に溶け込んだ新聞になった。

 それでも将来、老後はネパールに帰るだろうとティラクさんは言う。

「ガイジンはガイジンだからね(笑)いずれネパールに帰って、日本での経験を書き、出版することが夢です」

 在日ネパール人社会を見つめるジャーナリストは、少し寂しそうに笑った。(写真・文/室橋裕和)

■ティラクさんが運営するニュースサイト「サムッドラパーリ」
http://samudrapari.com/
ネパール語がわからないとさっぱりだが、それはそれで楽しめる