そんな日本男子卓球界に彗星のごとく現れたのが水谷隼だった。5歳で卓球を始めた水谷は、両親が営む卓球教室でめきめきと腕を上げ、「天才少年」と呼ばれていた。五輪デビューは2008年の北京大会。当時、明治大学の学生だった水谷はシングルスで3回戦、団体戦では1次リーグを突破して決勝トーナメントに進出。強豪ドイツと当たった準決勝ではダブルスで1勝を挙げた。しかし、シングルスでは相手エースのティモ・ボルに1―3で敗れ、敗者復活戦でもチームは敗戦。メダルには届かなかった。

 自身がエースとして臨んだ12年ロンドン五輪では、シングルス4回戦、団体も準々決勝で香港に敗れ、またしてもメダルを逃す。一方の女子は団体戦で日本史上初の銀メダルを獲得。その偉業が歴史に刻まれ、男子の存在は女子の躍進の陰に完全に隠れてしまった。失意のどん底に落ちた水谷は一時期、卓球を離れてしまう。

 このとき、卓球が正式競技になったソウル五輪から、実に24年もの月日が流れていた。その間、五輪は7回開かれ、延べ26人の代表選手(水谷も含む)がメダルを懸けて五輪に挑んだ。数え切れない敗戦には監督やコーチ、そして五輪の舞台に立つことなく散った数多の選手の思いが積み上げられている。その重みこそが日本卓球界の「悲願」の正体である。

 ロンドン五輪から、さらに4年が経ったリオ五輪で、水谷はシングルスで銅メダルを獲得し、日本卓球界初の個人メダルをもたらした。また、団体戦も北京五輪で敗れたドイツを下して決勝へ進んだ。これで銀メダル以上は確定したが、狙うは悲願の金メダル。王者中国との“頂上決戦”が、まもなく始まる。(文・高樹ミナ)