東京芸術劇場のそばにあるショヒド・ミナールの碑。傍らには建立の経緯を解説するプレートも
東京芸術劇場のそばにあるショヒド・ミナールの碑。傍らには建立の経緯を解説するプレートも
医学博士でもあり、JBS創設メンバーでもあるシェイク・アリムザマンさん
医学博士でもあり、JBS創設メンバーでもあるシェイク・アリムザマンさん
4月17日に行われたボイシャキメラはあいにくの雨だったが多くの客を集めた
4月17日に行われたボイシャキメラはあいにくの雨だったが多くの客を集めた

 東京・池袋、西口公園。その片隅に、小さなモニュメントがあることを知る日本人は少ない。ショヒド・ミナールという幾何学的な碑で、これはバングラデシュの誇りなのだ。

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 1947年、イギリス領インド帝国が崩壊し、イスラム教徒の多い地域が「パキスタン」として独立した。いまのパキスタンと、バングラデシュを合わせたエリアだ。しかし両国は広大なインドを挟んで距離が離れていた。同じイスラム教徒とはいえ、文化や言語が違う。やがてバングラデシュはイギリス支配以前は別の国であったのに、「東パキスタン」と呼ばれるようになり、西側パキスタンの政治的支配下に置かれてしまう。

 何よりもバングラデシュの人々が憤慨したのは、土地の母語であるベンガル語を否定されたことだった。パキスタン人は、自分たちの言語であるウルドゥー語の公用化を進めたのだ。1952年2月21日には、抗議する人々に対して警官隊が発砲、多くの命が奪われた。しかしこの運動が、パキスタンからのバングラデシュ独立戦争につながっていく。

 いまもバングラデシュ首都ダッカには、ベンガル語を守るシンボルとして、ベンガル言語運動の犠牲者を追悼する国定記念碑であるショヒド・ミナールが立っている。そして2月21日はユネスコによって国際言語デーと定められた。バングラデシュの人々にとってショヒド・ミナールは、民族独立と、国際平和の証なのだ。だから世界各地の、バングラデシュ人が多く住む場所には、そのミニチュアやレプリカが建てられている。池袋に建てられた小さなモニュメントが、日本のショヒド・ミナールなのだ。

「1980年代から90年代にかけて、バングラデシュ人たちが増えてきたと思います。ここ豊島区のほか、まわりの北区や板橋区、練馬区の、小さな町工場や中小企業で働く人が多くなっていったんです。バブル景気で人手が足らず、外国人労働者は重宝されました」

 と話すのは、来日してもう30年ほどになるというシェイク・アリムザマンさん。日本全体でおよそ1万人のバングラデシュ人が暮らしているが、そのうち豊島区、北区、板橋区、練馬区だけで1000人を数える(数字は法務省および東京都による)。これらの区からアクセスしやすい池袋が、コミュニティーの中心になっていった。

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