17歳の時、浅子は大阪の豪商・加島屋の広岡信五郎と結婚した。ドラマでは玉木宏が家業に関心の薄い夫を、粋な若旦那風に演じている。「男の沽券にかかわる」と浅子の行動力を制限するタイプではなかった。信五郎は1904年に他界するまで、浅子の最大の理解者であり続けた。

 嫁ぎ先である加島屋の主な取引先は諸藩であり、幕末の混乱時に浅子は金蔵にある不良債権の束を見て危機感を抱く。明治維新後、経済が混乱した時期には金策に走り、店を存続の危機から救った。生家・三井家の堅実な経営方針は、浅子のDNAにしっかり刻まれていたわけだ。

 以後、浅子は加島屋の経営を掌握し、商才を発揮する。1886年に福岡県飯塚市にあった潤野炭鉱を買い取って経営、成功を収めた。ピストルを懐に忍ばせ、洋装で炭鉱に乗り込み、炭坑夫を叱咤激励したという逸話が残っている。また、88年に加島銀行を設立し、1902年には大同生命の創業に参加した。

 晩年は女性教育の推進に貢献している。梅花女学校の校長である成瀬仁蔵の依頼を受け、日本初の女子大学校となる日本女子大の創設を物心両面で支えた。また、女性向けの勉強会を主宰し、女性参政権獲得運動に生涯をささげた市川房枝や、翻訳家・作家として『赤毛のアン』など多くの作品を生んだ村岡花子などに刺激を与えた。キリスト教徒の出会いも、教育者としての見識を深めたと思われる。

 浅子は1919年1月14日に69歳で亡くなっている。『小説 土佐堀川』によると、最期の言葉は「ふだん言うとったことが、みな遺言や。何も言うことはない」。密度の濃い一生を生き切った感がある。

 ドラマや小説以外でも、浅子の生涯について知ることができる。大同生命は、「あさが来た」の放送が終了する来年3月までの予定で、大阪本社内にあるメモリアルホールで「大同生命の源流“加島屋と広岡浅子”」と題した特別展示を開催中だ。浅子の書簡や帳面、新選組の近藤勇局長と土方歳三副長の連名による借用書などが並ぶ。

 大同生命大阪本社が建つ「大阪市西区江戸堀1丁目2番1号」は加島家本家の跡地だ。付近は、阪神高速道や高層ビル群が立ち並ぶ大阪一のビジネス街。土佐堀川の流れを眺め、浅子が生きた時代を感じてみてはどうだろう。

(ライター・若林 朋子)