チェスは将棋に比べて機動力が高い駒がほとんどです。一方将棋は足が遅い駒がほとんどです。

 これが、盤面のどこかで緊急事態が生じたときに大きな差になります。チェスの駒は緊急事態が生じても、すぐに現場に駆けつけられますが、将棋の駒はなかなか駆けつけられません。

 そのためチェスでは駒をどれだけ盤面に残存させているかが局面の良し悪しに直結する一方、将棋は駒がよい配置にあることが、局面の良し悪しに直結するのです。

 駒の残存量を計算することは、コンピュータにはとても簡単なことです。もちろんチェスにはそれ以外にも大事な要素がたくさんありますが、チェスというゲームがどういうものであったかを人間は論理的に言うことができました。

 これこそが、コンピュータにとって将棋とチェスが区別される理由だったのです。

 チェスについては、昔からさまざまな人が、どのように局面の良し悪しを測ればいいのか、教科書的なものを作っていました。

 チェスのプログラムは、こういったチェスの教科書から局面の判断基準をどんどん輸入しました。チェスを万人が理解できるようにしようとした試みが、結果的にコンピュータすらも理解できる形になったのだと思います。

 これは決して、将棋にかかわる人たちが教科書を作ることに不真面目だったというわけではありません。

 将棋は論理的に局面の良し悪しを述べることが難しいのです。将棋の指し手を評する言葉には、「味がいい」「手厚い」「重い」といった難解なニュアンスのものが多数あります。

 これらの用語の意味を理解し、自由に使えるようになるには、アマチュア初段程度の実力が必要でしょう。

 そして、こういった専門用語があるのは、なんとかして局面を言葉でとらえようとした将棋指しの歴史を物語るものなのです。

 ちなみに本線から脱線しますが、さらに専門用語の意味をとらえるのが難しいのが囲碁です。普通の初心者の人にとっては、囲碁の教科書を読めるようになることですら難しいのです(教科書なのに!)。そのため、一昔前の人工知能の技術では、囲碁を扱うのはほとんど不可能に近いレベルでした。

 チェスの世界チャンピオンを破ってから20年がたち、コンピュータは今ようやく将棋の名人を倒せるレベルに到達してようとしています。しかしプログラマたちは将棋がどういうものであるか、うまくコンピュータには伝えられませんでしたし、それは今後も永遠に成功しないでしょう。

 ではプログラマたちは、どのようにコンピュータを強くしたのでしょうか?

 もうおわかりですね。コンピュータが自分自身で将棋の知識を獲得しない限り、決して将棋の名人を打ち破ることはできないのです。