「日本のカメラマンも過当競争の請負業者としてではなく、またアーティストや職人としてでもなく、写真家という仕事をビジネスとしてとらえなおす必要があるのではないか」

 こうしたデジタルカメラとデジタルネットワークに関するニュースで、本誌に掲載されていなかったものがある。それは00年にJ-フォン(現ソフトバンク)からシャープ製「J-SHO4」が発売されたこと。この携帯電話には初めて静止画用のカメラが搭載され、「写メール」のセールスコピーで大ヒット商品となったのだった。ここから始まる携帯電話の搭載カメラの標準化こそ、カメラ市場を大きく変えていく要因となった。

ネイチャーフォトの見直し

 メカニズム記事が誌面での主役となるなかで、グラビアでもっとも活発な展開をみせたのが自然をテーマにする写真家たちだった。彼らの作品に共通したのは、多様な生命と環境の有機的なつながりを視覚的に把握しようとする姿勢といえるだろう。

 各号単発で発表される作品のほか、今森光彦の「生命の庭園」(96~98年)、岩合光昭の「あっ。」(99~00年)と「青の一枚」(01年)、宮崎学の「フクロウ谷どっとこむ宮崎学の列島自然報告」(01~04年)などが連載。

 さらに長期にわたり、断続的に発表されるシリーズも充実をみせた。竹内敏信の「飛花落葉」(97~98年)、モノクロで海中の諸相をとらえた中村征夫の「ニッポン海流」(93~03年)、俯瞰的な視座から自然をみつめた水越武の「日本列島生態系地図」(95~98年)と「真昼の星を求めて」(99~00年)などである。

 何度か触れてきたように、ネイチャーフォトを支持してきたのもまた、本誌の中心的読者である中高年層だった。そんなアマチュアの成長を促そうとしたのが宮嶋康彦だった。宮嶋は98年の連載「2001年の自然写真」と翌年の「2001年の花鳥風月」で“新しい風景写真への提言”を試み、ネイチャーフォトの見直しを提唱した。

 まず「2001年の自然写真」の冒頭で、いま自然をテーマにした写真が硬直化し行き詰まっていると指摘。その責任は「人工物の写った写真は自然写真にあらず」としてきたメディアにあり、こうした言説と「個性を欠いた『お手本写真』」の氾濫が、本来の個性的な写真を目指す面白みを奪った。重要なのは、自身の体験に基づいた自然観からテーマを見いだすことだと説いている。そして、宮嶋は「自然写真についてのまとまった論考がない」(98年12月号)として、翌年の「2001年の花鳥風月」につなげている。

 その初回、宮嶋は現在の自然写真は、琳派や狩野派などの古典的な日本画が表す自然の描写、つまり理想としての「花鳥風月」に由来すると位置づけ、これを実践して風景写真ブームの起点をつくったのは前田真三だとしている。この連載では前田へのインタビューも含めその業績を再検証することが意図されていたが、それはかなわなかった。偶然にもこの号で前田の死去が報じられたからである。

 続く2月号では、宮嶋と竹内の「番外対談」が企画された。人工物を画面から排する竹内とそれを含めて自らの自然写真とする宮嶋は、この風景写真ブームが、中高年世代の「自分探し」だとする点では、意見を同じくした。リタイアした後、いったい自分の人生はなんだったのかと問いながら自然と向きあう、そんな読者が多数とみたのだ。

 以降の連載で、宮嶋は自身の体験と古典などを引用しつつ、日本人の自然観には固有の環境に育まれた死生観が投影されていると説いている。それは人生経験を経てきた中高年の「自分探し」に対する、ヒントだった。

新鋭写真家たちの戦略性

 中高年に支持される企画が大半を占めるなか、新しい表現の動向を示すのはおもに木村伊兵衛写真賞(以下、木村賞)の役割となったようだ。本誌で作品が発表された経験のない写真家が唐突に受賞するケースが目立ち始めてくる。

 その理由のひとつに、候補者が増加したことが挙げられる。この頃、若手写真家の数が増えて活動も活発化していた。その傾向がはっきりするのは98年からで、前年から20人も増えて、45人もの写真家がノミネートされている。

 この年に受賞した都築響一も、本誌で作品が掲載されたことはない。受賞作品は、日本各地に点在する奇妙な観光地を取材した、週刊誌での連載をまとめた『ROADSIDEJAPAN 珍日本紀行』(アスペクト)である。都築は奇妙な風景はアートっぽくなりやすいが、自分はジャーナリズムの視線に徹し、それを極力排してきたと語っている。まさにその姿勢が評価の決め手となった。

 この年の、最終候補は笠井爾示、金村修、都築、ホンマタカシの4人で、審査員の選評を読むと、このうちホンマが最有力候補とみなされていたことがわかる。

 ホンマが、郊外を撮影したシリーズをまとめた『TOKYOSUBURBIA 東京郊外』(光琳社出版)でその期待に応えたのは翌99年だった。印象的なのは、このときの受賞の言葉のなかで「撮影したかった(表現ではない)のは『郊外的な距離感』」というもので、「『あたしのことを分かって! 分かって! 病』でも『自分探しの旅』でもオブセッションでもありません」と述べたのは印象的である。ちなみに、これより以前、97年5月号「フォト・ウオッチング」に登場したさい、「日本でいい写真と言われるのは関係性とかが熱い写真なんですよね。僕はそういうの、ぜんぜん合わない」とも語っていた。

 ホンマの作品について、選考委員の高梨豊は「写真に発生する『意味』の分節であり、象徴化を阻止する作業」という知的な戦略だと見た。同じく藤原新也は、その戦略性を、超資本主義社会にのみ込まれて“家畜化”しないために必要な「武装」だとした。

 対象との関係性によらず記号性を慎重に避けて知的に対象を見るという態度は、ホンマだけでなく、当時40歳前後の男性写真家の傾向といえた。木村賞でいえば97年の畠山直哉もそう評し得るからだ。

 2000年前後の本誌の読者が求めたのは、カメラや写真を通じた「自分探し」だった。それだけに、戦略的な思考で世界の在り方を描写しようと試みる若手写真家たちの出番は、少なくならざるを得なかったといえるだろう。