木村が外遊で得たのは、他者からの評価だけではない。本誌55年3月号の座談会「欧州撮影旅行から帰って」では、この長旅で「カメラマンの思想と骨組み」の大切さを実感したと述べている。それは、確かなヒューマニズムと社会観によって報道写真家としての主体性を確立し、社会的現実を力強く表現することだった。

 木村が本誌と異例な契約を結んだのはその2年後。57年8月発売の増刊号から作品発表が本誌のみになった。「同氏の仕事の分量を整理し、安んじて制作に専念できる場を進んで提供する」ためと、誌面は語っている。専属写真家となった木村は、8月号から連作「日本人」シリーズ(翌年12月号まで)を発表し、さらに「新発売カメラをバラバラに分解してのレポ」と銘打った「ニューフェイス診断室」を担当する。木村の外遊は際立った例だが、写真家の海外渡航そのものは増えている。たとえば渡辺義雄は56年春にアジア連帯文化使節団の一員としてヨーロッパ、インド、ソ連、中国を周遊して本誌に作品を連載(57年1~4月号)。三木淳は54年にニューヨークのライフ本社に招かれ、5カ月間滞米した。ほかにもひと月前後の短期間の渡航例などはすでに少なくなかった。

 海外渡航の増加は、時代の節目を示す現象といえる。55年に国民総生産(GNP)は戦前最盛期の水準を超え、翌年発表された経済白書は「もはや戦後ではない」と結ばれた。日本は高度経済成長期と国際化へのとば口に立っていた。

批評家と写真家

 敗戦後、日本の写真界はアメリカを中心とするフォトジャーナリズムから強い影響を受けた。その表現の頂点がカルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」だとすれば、集大成は「ザ・ファミリー・オブ・マン(われらみな人間家族)」である。56年3月の日本橋高島屋から1年半をかけて日本を巡回し、約百万人を動員した史上最大の写真展である。

 本展はニューヨーク近代美術館の開館25周年を記念して、写真部長のエドワード・スタイケンが企画し、38カ国を巡回。文化や人種の壁を超えた人類共通の営みを通して普遍的なヒューマニズムを表現することを目的としていた。日本展での総展示数は、日本でのみ出展された写真、例えば山端庸介の長崎原爆被害の写真など30余点を加えて500点以上になった。

 展覧会は開催前から世間の耳目を集めた。本誌でも55年11月号でスタイケンを囲む座談会が開かれ、展示に対する期待が語られている。じっさい日本巡回は終始大好評だったが、ひとつの問題が日本の写真関係者に疑問を投げかけた。開幕直後、米国大使の招待で昭和天皇が来場したさい、山端の写真がカーテンで覆われ、後に撤去されたのである。

 これに対し日本の写真評論家らはすぐさま連名で抗議し、本誌56年6月号の座談会「最近の話題を語る」でも取り上げられた。ことに名取洋之助は、この展示は「アメリカ人がアメリカ人に見せるもの」「私はこれを日本で大勢が見ることが、果たしていいかどうか、いい影響を与えるかどうか。少なくとも私は甘いと思う」と手厳しい。

 前号でも触れたように、本誌の特色は痛烈な批評欄にもあった。例えば、その矛先は新しいスターと位置づけられていた濱谷浩にも向けられている。濱谷は、戦前から撮り続けていた新潟県の山間部の民俗行事や農業儀礼を、56年に写真集『雪国』(毎日新聞社)にまとめて、第2回毎日写真賞を受賞。さらに、戦後の復興から取り残された日本海側を取材した「裏日本」シリーズを「中央公論」などに発表して話題を呼んでいた。57年1月号の座談会「話題の作家を検討する」では、その濱谷に対して、まず伊奈信男が口火を切る。

「あの人の根本的な態度というか、そういう深いところに問題があるような気がする。自分が、何か頭の中に造っているようなものばかり探している。だからほんとうの日本の貧しいところとか、裏日本のわびしいところとか、そういうものの実感があまりない」

 それを受けた渡辺勉は感傷的な濱谷が「ルポルタージュをやると見られない。何をもとにしているかわからない」と述べ、浦松佐美太郎は造形性は優れているが「社会問題でも何でもない」とした。

 この辛辣(しんらつ)な評は読者からの反発を招いた。翌号の投書欄「談話室」には、思想的な裏づけのある濱谷の写真を、ある型に嵌(は)めて評するのは不当であるとの意見が掲載された。差出人は早大生の栗原達男で、彼は3年後の安保闘争下で濱谷の取材を助け、卒業後には朝日新聞社出版写真部の一員となって活躍する。

 もちろん、最も不満を募らせたのは当の写真家たちだ。4月号の座談会「写真批評をめぐって」では、三木、秋山庄太郎、稲村隆正らが評論側の浦松と金丸重嶺に反論した。批評家は何を基準に語るのか、批評の対象範囲を広げ、写真家を伸ばすような示唆を与えるべきではないか。対して批評家側は、見るには物理的な限度があり、そもそも批評は写真家に対して書くものではないと異議を退けた。

 いつの時代にもある葛藤だが、それがこれほど率直に語られた時代も珍しい。敗戦で主体を喪失した写真家と批評家たちは、それぞれが「思想と骨組み」とは何かを真剣に求めていた。そして、編集長津村が、その欲求を活性化させる場を設けたのだった。だが、戦後の復興期が過ぎゆくにつれ、求められるものが変わり始めたようだ。それを察知したように、津村は同号で編集長を去り、伴俊彦にその席を譲った。

 この頃、本誌には新しい世代の写真家が登場し始めていた。それはアメリカ国籍を持ちシカゴのニュー・バウハウスで学んだ石元泰博、岩波写真文庫を経てフリーになった長野重一と東松照明。「ザ・ファミリー・オブ・マン」日本展と同年に初個展を開いた奈良原一高、今井寿恵、常盤とよ子、北代省三。さらに近代映画社から独立した中村正也。海外作家ではロバート・フランクやウィリアム・クラインなども話題に上った。

 また、ドイツのオットー・シュタイナートが提唱したサブジェクティブ・フォトグラフィーが「主観主義写真」の訳で日本に紹介され、56年には「日本主観主義写真連盟」が結成されている。運動として大きな盛り上がりには至らなかったが、写真のあらゆる方法を使い、写真家は主観的な表現をすべきという主張は、先の若い世代の表現と共通する傾向だった。

 ことに奈良原は火山灰の村と海上炭鉱を新鮮な映像感覚で切り取った「人間の土地」展で非常な注目を浴びていた。