関西写壇の中心にいた安井仲治は、41年10月に朝日新聞社主催の「新体制国民講座」の一環で「写真の発達とその芸術的諸相」というテーマで講演を行った。そこで、現在では報道的任務が「唯一の写真家としての途」とされるが、自分はその立場にはない、だが、どのようなかたちでも「写真を正しい姿に発展させて行きたい」と語った。そのためには「全人格的な写真家の修練とカルチュアーが必要」であり、「技術以上に全人格としてこれを行わなくてはならない」とし、明治天皇の御製を引用して「戦の庭に立つも立たぬも」同じ写真の「道」だと説いた。

 彼を慕っていた浪華写真倶楽部の小林鳴村は、この講演を見ていた。すると熱を帯びてしゃべる安井の顔が、しだいに仏像のように見えだし「不吉な予感に慄然(りつぜん)としながら」いつしか涙が流れてきたと振り返っている。

 小林の予感は的中する。このとき安井は高血圧と腎臓の病を得ていて、それもかなり進行していた。のちに「写真文化」の編集長になる石津良介は、おそらく丹平写真倶楽部の東京展のためだったと思われるが、病を押して上京した安井と会い、銀座の酒場でこう頼まれたという。

「これからどんな世のなかになっても、写真文化の火は、たとえどんなに小さい灯でもよいのです。この灯だけは消さないで下さいね」

 翌42年3月15日、安井仲治は39歳の若さでこの世を去った。それは「アサヒカメラ」廃刊号発行の10日ほど前に聞こえてきた悲報だった。

統合から廃刊まで

 日中戦争以降、どの出版社も印刷用紙の調達に苦労するようになった。それは当時、最大部数を誇っていた朝日新聞社でも同様だった。東京と大阪の出版部門が統合されて出版局(現在の朝日新聞出版の前身)が誕生した38年には、雑誌用紙の割り当て全体が2割削減されている。それからページ数は微減を続け、本誌40年9月号には「節紙国策」のため、以降は予約販売制になるとの告知が出された。

 その年の12月には情報局のもとに統制団体である日本出版文化協会が設立され、翌年には日本出版配給も設立された。政府や情報局はこうした統制団体を通じて用紙の調達から配本までをコントロールし、出版界を指導したのである。

 ところが『朝日新聞出版局50年史』には、出版局に対して「言論の統制はなかった」と書かれている。その理由は、のちに廃業を命じられる中央公論社や改造社のように総合雑誌を持たず、情報局の指示に対して忠実に自己規制を行い、それゆえ利用価値が認められたからだと推測されている。

 また日米開戦を経るなかで、全体に占める出版局の売り上げの比重は高まっていた。新聞の制作は従軍記者を戦地に送るなどで費用がかさむ一方、紙幅とともに広告収入が減ったのだ。それを雑誌や書籍の売り上げがカバーしていたため、「敗戦の破局にいたるまで、平穏に発展」することになったと、同書の編者は苦々しく振り返っている。

 何より出版界に衝撃を与えたのは、40年7月に新聞・雑誌の統廃合が指示されたことで、翌年1月号からは写真雑誌も以下の4誌に絞られてしまった。つまり大衆写真雑誌「アサヒカメラ」(「芸術写真研究」「肖像写真研究」を吸収)、綜合写真雑誌「写真文化」(アルス・「カメラ」「写真サロン」「カメラクラブ」が統合)、報道写真雑誌「報道写真」(写真協会・「フォトタイムス」「カメラアート」が統合)、写真技術研究雑誌「写真日本」(明光社・「小型カメラ」「アマチュアカメラ」「光画月刊」が統合)である。このほか廃刊したタイトルも少なくない。

 幸い存続した本誌だったが、家庭写真、科学写真、報道写真を中心とした誌面になっている。また、すでに敵国となっていたアメリカに対する対抗心を扇動するページが増えている。例を挙げると41年6月号から3回連載された「我が南方の共栄圏」では東南アジア各国の風俗写真を、金丸重嶺がグラフ構成に仕立てたもの。写真は観光的だが、アメリカの野望を打破し、日本の指導でブロック化したときのために視覚的教養を提供するのが目的だった。

 10月号はオール戦争特集である。グラビアは「挺身東亜の再建へ」「前線に捧げる臨戦銃後都会の報告」「力強き銃後」「第二次世界大戦の表情」が、特集記事には「戦争と写真科学」「戦争と写真宣伝」「写真も国防第一線に出でよ」などに占められた。ただし、これほど忠実に自己規制を行っても、趣味の雑誌に対する紙配給は減らされるほかはない。次号から現行の130ページから30ページほど薄く、定価を80銭から50銭に下げた「新体制版へ」の移行が告知されている。

 そして12月8日の日米開戦を経た42年には、ついに趣味的な作品はコンテスト欄でしか見られなくなる。従軍カメラマン提供の報道写真や、軍人からの指導的記事が大半を占めた姿には、もはや大衆写真雑誌の面影さえない。辛うじて目を引くのは、3月号で木村伊兵衛、杉山吉良、土門拳、濱谷浩、加藤恭平、渡辺義雄による「報道写真家の撮った人物写真」くらいだろう。

 そして4月号で、本誌は廃刊を宣言した。月例と前線への献納写真アルバムの入選作品を紹介した別冊の巻末に「大東亜建設という光栄ある重大使命に向かって総てのものが動員されなければならぬ秋、本誌の役割は一応達成された」との「謹告」を出した。その隣には創刊から関わった福原信三、成沢玲川、大江素天らの言葉が並んでいるが、そこに編集長松野志気雄の名前はない。

 当時松野は前年10月に創刊された「科学朝日」の編集長も兼務し、そこで能力を発揮はしていた。だが一時は「アサヒカメラ時代」と自らうたったほどの絶頂期を築いた人は、本誌の最後をどう受け止めていたのだろうか。

 この後、さらに戦争は激しくなり、宣伝手段としての報道写真はいっそう強く推進されつつ、45年の敗戦を迎えることになる。その前後の詳細については白山眞理の『〈報道写真〉と戦争』(吉川弘文館)が詳(つまび)らかにしている。

 重要なのはこうした流れが、戦後の写真界に大きな影響を与えたことだ。報道写真は、こと若い世代に写真によって社会的意識を表現する技術と意義を教えた。彼らはそれを受け継ぎつつ、批評的な主体性を持たなかった過去を反省し、新しい表現を築いていく。それは同時に芸術写真家である先達との間に断絶をもたらすことでもあった。その葛藤は、49年の復刊以降の本誌の歩みのなかで語られるだろう。