なぜ、写真を選んだのか。鬼海弘雄が語る “世間のひと” (その2)
40年来撮り続けたポートレートを『世間のひと』(ちくま文庫)として発表した鬼海弘雄さんにお話をうかがった第2回目。浅草で出会った人びとを撮るようになる背景には、学生時代の、「師」との大きな出会いがありました。(インタビューと撮影:池谷修一・アサヒカメラ編集部)
(前回からの続き)それでは、そういったふうに自分の写真を撮るスタンスが落ち着いたのって、人を撮りだしてどのくらいの頃なんですか?
鬼海 そうねぇ、写真初めてすぐマグロ船を降りて、これを撮り出しているんだよね。マグロ船降りて、現像所に勤めた。現像所って湿っていて暗い部屋にいるから、休みの日になると日差しとか風が恋しくって浅草へ行くわけですよ。それで撮り始めた。1973年。働きながら撮ってるわけ。そしてほらすぐ、日本広告写真家協会展で選もらうのよ。
なんで「広告写真」なんですか? 意外に思えますけど。
鬼海 いやいや、そのときたまたま、加納典明さんが審査の委員長で、公募の全体的なタイトルが「日本人」っていうんだったのよ。
なるほど。そのとき鬼海さんはいくつでした?
鬼海 28歳かな。すぐ賞をとってちょろいなぁと思ったけど、それがいけなかったね(笑)。
それ以降もずっと鬼海さんは浅草で撮っていたわけだけど、初めの頃は上野でも撮っていますよね。
鬼海 そうねぇ、あの辺の、やっぱり俗にいう下町っていうところね。そこになぜ行ったかっていうと、ほらトラックの運転手をしてきたり、職工やってきたりしてきたでしょ。それに自分は山形の村で育ったから。その辺りにはわりと懐かしい感じの人がいるんだよね。で、すごく安心するわけよ。その頃は、写真は撮ってるんだけど、写真家にならなくてもよいんだって、どっかであるのよね(笑)。
鬼海さんの中で?
鬼海 そう。だから、すぐに六本木に行きたいだとか、モデルさん撮りたいっていうね、そういうのがなかったんだよね。
その頃って鬼海さんは、「カメラ毎日」の山岸章二さんに写真を見てもらっていたころですよね?
鬼海 そうです。
すると表現者としては、やっぱり写真家っていう目標があったわけでしょう?
鬼海 いや、表現者にはなりたいけど、まだ、ぜんぜん写真家に、っていう感じまではなかったよね。それはね、文章書けるかとかだったら、また、ぜんぜん分かんない。だけど、写真はカメラとフィルム使うんだから、ねぇ(笑)。油絵とか、小説書くよりも楽でしょ、ぜんぜん。
でも、本当はそうでもなかった、みたいな?
鬼海 いや、そんなには違わないとは思うけど、写真は、最初はとっかかりやすいでしょ。音楽にしても、絵画にしても、表現やるっていうスタートラインに入るのは大変。写真だったらカメラ持って現像できれば、いちおう表現ってことがあるわけだけど。その分だけ作品がイージーになって、みなさん自分を煮詰めないで来てしまうわけだけどね。
映画は元来好きだったじゃないですか。それ以前に、例えば絵とか美術への感心とか、自分で描いたりとかは? そういえば、これまであんまりそう言った話聞いたことないですね。
鬼海 絵とか美術とかは、なかったですね。やっぱり福田定良先生に会ってからですね。福田先生っていうのは哲学者なんだけど、哲学関係者じゃなかったから。かなりヘーゲルは読んでいましたけど。自分なりに、血肉にするように咀嚼してるわけです。『小論理学』なんていうのはもう、ものすごく何回も読んでて。先生がなくなったときお棺の中にもうぼろぼろになった三冊目ぐらいなんだけど、それを入れたんだけど。
何を入れたんですか?
鬼海 ヘーゲルの『小論理学』。何回も読んでてね。
やっぱり学問っていうのは、福田先生の中で“知を愛するって言うんだよね。フィロソフィーっていうのも、もともと知を愛すっていうことなんだよ。そういうかたちで、やっぱり普通の人たちもいかに自由になって考えることができるかっていうのがあって。福田先生は、やっぱり戦前のああいうことを見てたから、すごくこうオプティニズムなところがあるんですよ。こう世界が徐々に良くなっていくみたいなね。で、やっぱりその影響はわたしに多いよね。それはぜんぜん大きいです。
大学に入って、福田先生に出会った時って、やっぱり知に対して自分の関心が高まっていたわけですか?
鬼海 んー、そういうのは何にも考えないね。
でも哲学科ですよね?
鬼海 哲学科を選んだっていうのは、自分は高校出てすぐの頃、山形県庁に勤めるでしょう。そして、その実務的なものは自分にぜんぜん合わないということが分かったわけ。
合わないですよねぇ(笑)。
鬼海 ぜんぜん合わない(笑)。それで、法学とかねぇ、経営学選ぶとかダメでしょ? まぁ選ぶ対象にならないわけですよ。だからいちばん役立たない学問っていったら哲学じゃん。だから、それで選んだんだよね。当時は今の学生よりも、誰でもぜんぜん本とか読んでたんだよね。やっぱりマルクスの本、読んでたりなんかしててね。で、学生運動が盛んだったし。
当時の法政大学って結構そういうところですよね?
鬼海 中核(全学連)の拠点だよ。で、同じ哲学科でわりと一目置いている友達みたいなのいるわけでしょ。ボードレールがいいんだとかね。やっぱり朔太郎より伊東静雄だよ!(笑) とかね。そういう人たちがやっぱりいちばん最初に政治運動にのめり込んでいくわけですよ。
でも鬼海さんそうならなかった?
鬼海 いや、わたしは、来いよ来いよって研究会に連れられていって、『ドイツイデオロギー』 なんか読んでたんだけど。でもそのあとどうだったかねぇ、デモとか行くとね、思いっきり蹴飛ばすんだよね。とてもとても、私はやっていけない。それで、なんかこう、日和ってた時に、映画観るわけですよ。
アンジェイ・ワイダですね。
鬼海 そうです。ワイダ。それまではほら、田舎で観てる映画っていうのは、やっぱり、中村錦之助の映画だったり、片岡千恵蔵の水戸黄門だったりするわけだけど。
それはそれでいいんですけどね。
鬼海 それはそれでいいんだけど。ワイダの作品は、映画があんなに人生を語るとは思わなかったよね。映画はいいなぁって思って。
当時はやっぱりね、インテリの中でも言語的表現とか対象をどんなかたちで巻き込むかっていう意味で、映像表現には行くんだよ。言語表現っていうのはどうしたって知性とか知識とかに徹するでしょ? だから言語表現とは違った映像表現ってのがね。
なるほど。
鬼海 言語表現だとコプラ(copula)ていうんだけど、「繋辞」っていうのかな、言語表現だと「何は何である」っていうふうに積んでいくわけでしょ。それが、映像では一切言わない。だから、民衆のための新しい表現方法だとかってね、中井正一の『美学入門』とかもあって、いろんな進歩的な映画評論家なんかも佐藤忠男さんとか、新しい民衆の芸術ってのは映画だっていう流れがあったんですよ。
その流れは半世紀前にヨーロッパでおきているんです。シュールレアリズム。そういう意味で、やっぱり民衆の中から新しいものが生まれてくるっていうことがあった。
そういうとき、福田先生がそういうかたちだったでしょ。福田先生は学校以外でほとんどの時間は街の人と話し合うことをして自分も考えるっていう……。
それは本当に伝統的な哲人のすがたですね。
鬼海 そう。ギリシャの哲学者。だから福田先生にとってそういうことが、なんで必要だったかというと、やっぱり、戦争で招集されて陸軍に入るんだけど、半分仮病、半分病気で戻ってくるわけですよ。それで、先生の先生っていうのが谷川徹三さんなんですけどね。
福田先生の先生。俊太郎さんのお父さんの谷川徹三さん。
鬼海 そう。それで、意気揚々として、非人間的な軍隊から逃げてきたって挨拶に行ったら、「ふーん」って徹三先生が言って、「君ね、ソクラテスってのもね、立派な兵士だったんだよ」って言われた(笑)。ガクッてきたって言ってましたね。
それでもう一回招集されるのを恐れて、自分から兵隊の徴用工兵に応募するんだよね。ほら鉄砲持たなくて穴掘ったり、建物建てたりする。そして南方に行くんだよ。それで一緒に行った僚船が目の前で沈むのを見る。その時のことを『めもらびりあ―戦争と哲学と私』っていう本に書いた。これが、すごい良い本なんですよねぇ……。
(次回に続きます)
*2014年5月9日(金)~6月16日(月) 東京・品川のキヤノン・ギャラリーSにて「鬼海弘雄写真展:INDIA 1982-2011」が開催。
鬼海弘雄(きかい・ひろお) 1945年山形県まれ。法政大学文学部哲学科卒業後、さまざまな職業を経て写真家に。73年から浅草で撮り続ける肖像写真群は『王たちの肖像』『PERSONA』『Asakusa Portraits』などの写真集にまとめられ、海外での評価も高い。長年に渡りテーマを追い、インドやトルコを撮り重ねる各シリーズも継続中。『東京迷路』『東京夢譚』など東京各地を歩いた作品集でも知られる。エッセイ集に『インドや月山』『眼と風の記憶』などがある。
関連リンク
『世間のひと』(ちくま文庫)1728円(税込)
