「アサヒグラフ」1950年2月22日号では孝宮和子さまの花嫁修業について、こう記されている。<一昨年(編注=1948年)五月、元侍従長百武三郎氏宅に移つて一年余りも市井生活の御修業をつまれ、(皇居内の)呉竹寮にお引とりになってからも、学習院補修科に通学される傍ら、あてがわれた豫算(予算)で家事一切をきりもりして、新らしい時代の主婦としての御教養をつんでこられている>右の写真の説明は<呉竹寮でも皇后さま(香淳皇后)の御指導でコシ入れの準備にいそしんでおられ 御結婚後も「女中を雇わない覚悟」で 一サラリーマンの主婦として生活する と大変ハリキッていられるそうだ>(「アサヒグラフ」1950年2月22日号より)(C)朝日新聞社
「アサヒグラフ」1950年6月7日号では、結婚式前に新郎の鷹司平通さんが会社を休んで母と買い物に出かける様子や、新居に運ばれる荷物、孝宮和子さまが皇族としての最後の拝礼を終えられた様子などを紹介。結婚式当日の衣装は<新郎はモーニング 新婦は おすべらかしに亀甲地紋の小袿(コウチギ)向いオオムの紋様もくすんだ紅梅色に深紫のはかま>だった。写真は結婚式を終えて宮内庁の車(パッカード社製)に乗り込んだお二人(「アサヒグラフ」同年6月7日号より)(C)朝日新聞社
「アサヒグラフ」1950年6月7日号 <明治神宮参拝を済ませ 代々木山谷の鷹司家に入つた新郎新婦は人々の目から解放されて この日初めて心からホットした お祝のケーキに二人の手が一緒にのびた水いらずの時だつた(午後四時)> (C)朝日新聞社
「アサヒグラフ」1952年10月29日号 嫁入り道具を特集した記事には<岡山の牧場主池田隆政氏に嫁がれた順宮厚子内親王のお輿入れの諸道具は、御婚儀に先立つ十月初め岡山市伊福高台の新居に届けられた。トラックで六台、梱包で百数十個という量で、三十四坪二合の新居には到底納めきれず、日常の身の廻り用品以外は旧池田邸の蔵の中に納められた。この他に持参金が七百万円也>と記されている。そのほか、主な嫁入り道具は以下の通り。三菱製電気冷蔵庫、電気洗濯器(東芝製)、普通のシンガー・ミシンと電気ミシン(重機製)、ビクター製電気蓄音機、ピアノ(山葉製、皇后陛下の持つておられた品)、大理石の置時計(精工舎製)、洋食器ケース(食器は銀製)、小引出し、衣裳箪笥(四棹)、総桐箪笥、寄せ木細工の裁縫箱、編物箱(厚子夫人は編物がお好きの由)、雛祭用﨔塗盆(径約一尺)、鏡台、御誕生祝いに秩父宮はじめ六宮家より贈られた花瓶(高さ約八寸)※メーカー名など原文ママ (C)朝日新聞社
「アサヒグラフ」1960年3月27日号 記者会見で、サラリーマンの妻としての自信はおありですか?と問われ「自信はございません」と答えた貴子さん。<久永氏の方へ、大きく首をかしげて笑う貴子さん> (C)朝日新聞社
「アサヒグラフ」1960年5月22日号 島津夫妻の新婚旅行は宮崎へ。神戸から別府へ向かう関西汽船「くれない丸」の船内で<久永氏も 報道陣からカメラを向けられる合間に夫人の姿をパチリパチリ> (C)朝日新聞社