勝利目前の9回2死から同点に追いつかれ、延長15回にサヨナラボークの悲運に泣いたのが、1998年の宇部商。
2回戦の豊田大谷戦は、2年生左腕・藤田修平が8安打を許しながらも要所を締め、2対1とリードして9回裏を迎えた。1死から四球を許し、送りバントで2死二塁となったが、勝利まであと1人だった。
ところが、3番・古木克明(元横浜‐オリックス)四球で一、二塁としたあと、二塁走者・大井康生に三盗と本盗を決められ、土壇場で同点に追いつかれてしまう。
そして、2対2で迎えた延長15回、安打とエラーで無死一、三塁のピンチに、玉国光男監督は敬遠による満塁策を指示。無死満塁で8番・上田晃広と勝負することになった。
カウント2-1からの4球目、藤田はセットポジションに入ろうとしてプレートを踏んだまま上げたグラブをいったん下げ、セットの動作を中止した。
直後、林清一球審が両手をVの字に広げ、「ボーク!」を宣告した。三塁走者・前田悠貴が両手でガッツポーズしながらサヨナラのホームを踏んだ。大会史上初のサヨナラボークというあっけない幕切れだった。
「全然覚えていません。頭の中が真っ白になり、何が起こったのかわかりませんでした」(藤田)
それでは、なぜこんな行き違いが起きたのか? バッテリー間の複雑なサインのやりとりが原因だった。
捕手・上本達之(元西武)は、7回ごろから豊田大谷の二塁走者がサインをのぞき込み、打者にコースを教えているように感じていた。そこで、一度外角にフェイクのサインを出したあとで、サイン変更の合図を出し、内角のサインに変更する手順を踏むことにした。
それが裏目に出て、最初のサインでセットポジションに入った藤田が、フェイクのサインどおりに投げようとした直後、変更されたサインに戸惑い、反射的に動作を止めてしまったのだ。
「やばいと思った。自分のミスです」と上本は悔やんだが、くしくも同年の準々決勝、PL学園vs横浜でのサイン伝達行為が問題になり、12月の日本高野連全国理事会で禁止になった。新ルール導入がもう少し早ければ、サヨナラボークの悲劇も防げたかもしれない。