もちろん、基本的には好きで登っているわけだから道楽なんだけど、でも、死ぬか生きるかのギリギリの経験をする。その中で、知っている人が冬山に行ったまま帰ってこなかったり、友達が滑落して死んだというのは身近にあって、死を意識せざるを得ない。
僕は医者になってから2回、ヒマラヤに行きました。2回目の時は標高約8100m、世界で9番目に高いナンガパルバットという山に行ったのだけれど、頂上アタックの時に雪崩にあってしまった。僕自身は九死に一生を得て、手の骨を折った程度で生還しましたが、一緒に登って、ついその数時間前に同じ鍋で作ったラーメンを分け合って食べた相棒は、今もまだ、出てこない。
そういう経験を繰り返しているとね、下界の生活が輝きを増すんです。山で死が隣に感じられるような時間を過ごし、間一髪で生き延びて下りてくる。すると、普段の何でもない日常生活が、別世界のように見えてくる。
ある時、夏山で集中豪雨に遭って、谷に流されたことがあります。全身擦り傷だらけになって、濡れ鼠で何とか林道へたどり着き、はるか下のほうに微かに見える街の灯りを目指して歩いていたら、周りでホタルが舞っていた。普段なら、ただの虫だと思ったかもしれないけれど、その時は本当に感動しましたね。ああ、生きてて良かったな、って。そういう想いは、死を意識しないで生活していたら、決して感じられないだろうと思う。
■人間は、生まれた土地と切り離せない存在
山以外で強烈に死を意識したのは、治療中の針刺しでB型肝炎に感染した時。すぐにグロブリン(血液などの体液中に存在する血清タンパク質のひとつ。急性肝炎の治療や予防に使用される)を打つなどの処置をしたものの、10カ月後に発症した。体があまりにだるいので採血したら、GOT・GPTが3000くらいあったんです。僕は肝臓が専門なので、自分でデータを見た瞬間、あ、こりゃもう助からんな、と思いましたね。