#Me Tooというハッシュタグを通じて、性暴力やセクシャル・ハラスメントに対して立ち向かう動きが、日本でも大きな広まりを見せている。最近ではネット上でニュースを見ていると、#Me Tooという文字を目にしない日はないのではないかと思うほどだ。#Me Tooというハッシュタグとともに、多くの人が言葉を紡いでいる。
さて私自身はこのような動きをどのように受け止めたのかという話をしたい。#Me Tooというハッシュタグが添えられた言葉に目を向けていると、二つの感覚が複雑に絡み合う。
ひとつは、紡ぎ出されたひとつひとつの言葉に胸を締め付けられる感覚だ。これ以上は読んでいられない。でも目を背けてはいけない。そんなことを思いつつ、無性に苦しさが溢れてくる。また同時に、黙っていてはいけないのだと強く感じる。
もうひとつは、それとは全然違って、居心地が悪いという感覚だ。なぜ居心地の悪さを感じるのかと疑問を抱く人もいるかもしれないが、理由は単純だ。自分も加害者の側に立ったことがあるという自覚があるからだ。もちろん誰かをレイプしたという話ではない。でもこれまでの自分の何気ない振る舞いが、誰かの尊厳を犯すことになっていたのではないかという気持ちが湧いてきて、#Me Tooを通じて発せられた言葉が自分自身に突き付けられているように思えてならないのだ。
「何気ない振る舞い」というのは、例えば、会話の中で、「彼氏(彼女)はいるの?」といった言葉を皮切りにしてプライベートに踏み入ったり、「童貞いじり」など性生活や性体験を揶揄してみたりといったことだ。そういうことを、これまでの人生で幾度となくやってきてしまったように思う。あるいはそういう会話が目の前で行われていても、特におかしいとは思わず、一緒になって楽しむという形で加担することもあった。
無論、最近ではそんなことはしていない。だからといって、自分に対して向けられている言葉だという感覚はなくなるわけではない。私は講演などで話をする時、毎回と言っていいほどに、自由や尊厳、ジェンダー平等などについて触れている。その度に、心の中の自分が「そんな偉そうなことを言えるような人間か」と詰め寄ってくるように感じる。どれだけそういうことを語っても、慣れることはなく、ずっと自分の中でどこかひっかかるものを感じている。